期間限定の恋人ならいらない |
「すみませんでした……」 ダイニングテーブルについて、目玉焼きの乗った皿を直撃する勢いで深々と頭を下げる男の顎には、不似合いな白い湿布が張り付いている。 対する青年は、サラダボウルから互いの皿の上に生野菜をよそいながら、首を振った。 「いや、いいって。オレも悪かったよ。ごめんな、顎」 本気で命の心配をしたのが寝言のせいだったのだと気づいて、悲しみと怒りのあまり、手加減なしにアッパーカットをお見舞いしてしまったことを、青年は済まなく思っていた。 俳優は顔と声と体が資本である。その大事な三種の神器の一つを損なってしまったのだから、それは例えば医者からメスを取り上げることであり、新聞記者からペンを奪うことと同じ。 よく考えれば自分は日本全国のお茶の間を敵に回す行為をやらかしてしまったのである。―――尤もそれが世間にばれればの話だが。 青年の頭の中では、週刊誌の見出しに『橘義明の顎に大きなアザが!噂の恋人と早くも破局の予感 !? はたまた三角関係のもつれか !? 』という文字が躍っている様子が思い浮かべられていた。 「いえ、こんなものは大したことではありません。 それよりも、随分驚かせてしまったでしょう……すみませんでした。私は時々ああなるんです。職業病でしょうね」 俳優は首を振って、本当にすまなさそうに肩を落とした。 昨日会ったばかりの男に、寝ぼけてのこととはいえ、押し倒されたのだ。青年の驚きは如何ばかりであったろう。 拳を食らった程度は当然の報いとして受け入れる男だった。 「……いや、あれは職業病というよりもむしろノイローゼじゃねーか……?」 青年は俳優の言葉に首を捻り、 「寝ぼけて何言うかと思えば芝居の台詞!直江は寝てる間も無意識状態でも俳優なわけだ。いやはや却って尊敬するよ」 焼きたてのクロワッサンを相手の皿へ並べてやりながら話す様子はいかにも手馴れていて、青年の家事キャリアが二年よりもずっと長いのだろうということが窺えた。 「そしてあなたは話しながらも手を止めない。家事が得意だというのはもしかして、仕事でやり始める前からだったりしますか?」 俳優は感心したように首を振ってそう問うたが、相手の返事は予想外のものだった。 11/25 comment↓
直江さん、謝りどおし。 |
「オレん家さ、オフクロが早く死んで、親父はその後嫁さん貰わずにきたから。オレと妹と親父で家事を分担して、もう十年くらいにはなるかな。だから、何ていうか、バカの一つ覚えっての?オレ、寝てても感覚は主婦だから」 ゴミの日なんかどんなに眠くっても勝手に目が覚めちまうんだぜ?―――と笑いながらサラダにフォークを突っ込む青年の前で、俳優は言葉を失っていた。 「あれ?直江、食が進んでねーな。 ……もしかしてオレの作ったヤツ、不味かった?普段はきっとこだわって美味いもの食べてるんだろ?オレのじゃ庶民派すぎて口に合わないかもしれねーな。ごめん」 話す口も食べる口も動きを止めてしまった俳優を見て、青年は、あ、と声を上げた。そして、片手を顔の前に持ってくると、手を合わせる仕草をした。 ちなみに現在、食卓の上には、ちょっとしたホテルのモーニング顔負けの朝食が並べられている。 焼きたてホカホカのクロワッサンに始まり、きれいな色をしたロイヤルミルクティ、青い野菜が一杯のみずみずしいサラダ、見事にまんまるな目玉焼き、薄く切ったハムとキュウリのロールに手作りドレッシングをかけたもの、カリカリのベーコン、茹でてつぶしたペッパードポテト、そしてトマトソースで煮込んだソイビーンズ。ついでに野菜と果物を使った生ジュースまである。 しかも、いずれも見た目と味共に最高だ。確かに手の込んだ料理ではないが、そういうシンプルなものほど出来栄えの良し悪しが明らかにわかるものである。 俳優は、本気で済まなさそうな顔をしている青年と、目の前に並べられた非の打ち所の無い朝食とを何度も見比べて、―――まるで常識の通じない世界に放り込まれた迷い人のように深いため息をついた。 この青年は、自分の逆境を決して悲観せず、むしろ正反対に持ってゆくほど前向きなのだろう。しかも、それを当然と考えて僅かも誇らない。彼にかかれば、母親がいなければ自分が家事をするのが当たり前で、その結果としてこれほど美味い料理を作ることができるようになるのも、ごく当然のことなのだ。そして、ゴミの日に目が覚めるのも。 俳優は、それはそれは深いため息をついたのち、目の前にいる主夫の鑑を尊敬の眼差しで見つめて言ったのだった。 「……心の底から言いますが、あなたの料理は最高です。こんなお嫁さんを貰えたら世界一の幸せ者ですよ。ええ、本気で言っています。何なら逆立ちしながら言ってもいい」 11/29 comment↓
直江さん、ため息つきどおし。そしてゴミの日には勝手に目が覚める主夫の鑑高耶さん。 |
「ところでさ、直江、仕事は?分刻みのスケジュールにしてはのんびりしてんだな」 ふと、食後のミルクティのマグを傾ける手を止めて、青年は向かいの俳優へと視線を向けた。 「ああ、仕事は三日分の休暇をとってあるんです。今局に出かけたりすると面倒なことになりますから」 こちらは生ジュースのグラスを口元から離しての返事だ。どうやら俳優はこの新鮮な野菜&果物ジュースを気に入ったらしい。おかわりまでして青年を喜ばせた。 「そっか。……って、そんなら三日間ここから一歩も出ないのか?缶詰め?」 首を傾げた青年に、俳優へ首を振る。 「いえ、こもっていても仕方がないでしょう。昼食がてら出掛けますよ。あなたも付き合ってくださいね」 「オレも?」 青年は不思議そうに相手を見上げた。自分の仕事は家事だと思いこんでいるらしい。 そんな彼に、依頼主は僅かに首を傾げて微笑んでみせる。 「一緒にいないと恋人の意味がないでしょう?」 青年は、俳優の笑みにまた本物の恋人へ向けるような柔らかさを見つけた気がして、なぜかまた慌てた。 この男は、本物の恋人にも、こんな笑みを向けるのだろうか。全国のお茶の間の人気を一身に集めているこの男の、プライベートでの笑顔を、その人は独占しているのか。この男が三日に五十万も払ってまで、マスコミから守ろうとしているその人は。 「……ああ、まあ、そうだよな。うん、オレも行く」 男とその恋人のことを考えるうちに何だか混乱しそうになって、青年は無理矢理その思考を停止させた。 11/30 comment↓
高耶さん、プチ回転中。 |
彼は首を振って、話題を変えた。 「―――で、どこに?」 「以前から予約してあるところがありましてね。任せておいてください」 俳優はおどけた様子で片目を瞑ってみせた。 普通の男がやれば似合わないであろう仕草も、この男ならなぜかしっくりと馴染む。それが日本人離れした容貌のせいなのか、それとも身にまとう空気が違うからなのか、青年には見当がつかなかった。 彼はただ、感心して見ているばかり。 「ふーん。それにしても、悪いな……メシまで食わしてもらって。オレが家事するはずなのに」 申し訳ない、と小さく頭を下げる彼を、対する俳優は押しとどめた。 「いえいえ、あなたが付き合ってくださることに感謝していますよ」 しかし青年は首を振る。 「いや、やっぱりオレが一方的に得をしてる気がする……」 「朝っぱらから襲われそうになってもですか?」 俳優は苦笑しながら空のグラスをテーブルに戻した。 「あれは驚いたけどな。でも、寝ぼけてたんじゃしょうがねーじゃん」 青年は空になったグラスに再び(否、三度目だ)生ジュースを注いでやりながら笑っている。 屈託のない笑みを見て、俳優はうむむと眉を寄せた。 「……もしあれが本気だったらどうしたんですか?体格的には私の方が上だと思いますが」 自分より小一回り小さいように見える細身の青年を見て、彼は唸っている。 「そんときはケリ入れて逃げるさ。オレ、昔サッカーやってたから、けっこう脚力あるんだぜ」 対する青年は、にやりと唇を吊り上げた。どうやら余程脚力に自信があるようだ。 その危険な笑みに出会って、俳優はほうと目を見張った。 「ははあ、それは怖い。明日からは寝ぼけないように気をつけます」 苦笑して言った彼に、青年は笑って頷く。 「そうしてくれ。オレも寝ぼけてケリ入れるかもしれないしな?」 「それは勘弁してください」 二人がそうして食後の歓談を楽しんでいると、ふいにリビングの電話が鳴り出した。 11/23 comment↓
本気で襲ったら蹴りが入るそうです(笑) |
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