ハピネス - [ happiness ]
―――キャンドルの灯りがオレンジ色に部屋を染めている。
「おや、珍しいですね」
揺れる炎をじっと見つめるように丸くなった背中へ、風呂から上がってきた男が少し目を見張って呼びかけた。
少し前までまだ高校生だった細い背は、いつの間にかしっかりとした大人の骨格に近づいている。少年というよりも、青年と形容すべき姿になったその人は、同居人の呼びかけに体ごと振り向いた。
「ああ、同じゼミの女の子がくれた。たしか、バリ土産だってさ」
男のためにこたつの端を持ち上げて空間を作ってやりながら、青年は面白そうに笑って頷いた。
「そうでしたか。あなたにしては珍しいものを持ち出したと思ったら」
大きな体を縮めるようにして、それでもわざわざ青年の隣に、男が体を滑り込ませる。
「そりゃあな。さすがにオレは自分でこんなの買わねえよ」
互いの定位置に落ち着いた二人は、くつろいだ表情になって笑い合う。
「でも、せっかく頂いたんだから使おう、ということ?」
男は去年よりも確実に自分の目の高さに近づいた青年の前髪に指を絡め、その健やかな成長ぶりをいとおしむように、そっと撫で下ろした。
「まあな」
ぱちりと瞬きをして頷きの代わりにした青年は、ふと口をつぐんで炎に視線を集中させた。
男は青年が何かを考え始めたのを察し、こちらも黙ってただ髪を梳き続けた。
揺らめく炎の姿をしばらく黙って見つめていた二人である。
「……なあ」
やがて、青年がぽつりと呟いた。その背を抱くようにして炎を見守っていた男は、すぐに応える。
「おまえにとって、幸せって何だ?」
青年の台詞は、男にとっては意外なものだった。青年はあまりそういった抽象的な話を好むタイプではないのだ。しかし、彼が敢えてその話題を持ち出したのは何か強い理由があるからなのだろうと、男は見張った瞳を細めた。
「俺にとっての幸せなんて、あなたが一番よく知っているはずでしょう?」
ぐっと声を落として、殆ど囁きのように言葉を紡ぐ。隣にある細い体をゆっくりと抱き寄せ、両腕で作った輪の中に恋人を閉じ込めた男は、彼の唯一の存在理由である人の黒い髪、こめかみの辺りにくちづけた。
「あなたと一緒に生きていることが、唯一最高の幸せだ。それ以上の幸せも望みも、何一つない」
遠い昔にもそうしたように、強く青年の体を抱きしめて、男は心の底から搾り出すように囁いた。
「あなたにもう一度会うために、そのためにもう一度生まれなおした。
そのあなたに本当に再会できて、それだけで充分幸せだったのに、今はこうしていつも傍に居て一緒に生きていける。
―――ねえ、俺がどんなに幸せか、きっとあなたには想像もできないでしょう」
湯上りの暖かい体が、少し冷え始めていた青年へ体温を移してゆく。温められた肌から立ち上る微かな甘い香りに全身を包まれ、青年はうっとりと目を閉じた。
「おまえだって、オレがどのくらい幸せか、想像つかないだろ」
男の背に腕を回して強く抱き返した青年が、甘えるように爪を立てて囁き返す。
「いいえ。こんな風に懐いてくれるときはきっととても幸せでしょう?わかりますよ」
男は滅多にない甘えた仕草に目を細めながら、青年を抱く腕を僅かに緩めた。そうすれば恋人が首をめぐらせて―――
「はずれ。オレが一番幸せなのは寝てるとき」
伸び上がって、触れるだけのキスの後に、とびきりの笑顔を見せてくれるから。
「おやおや。それはひどいですね」
その期待はずれな台詞にどんなにがっかりしても、顔が緩むのを抑えることはできない。
そして、彼の恋人は決して彼の期待を裏切りはしなかった。
「オレが一番幸せなのは、『ここ』で、寝てるとき」
恋人は男の胸に鼻先を摺り寄せて、呟いた。
「……そう。かわいい子だ」
男はたちまち瞳をとろかせて、腕の中の恋人をあやすように揺する。
「なら、俺が一番幸せなのはね、あなたがここで、何もかも真っ白になって俺の名だけを呼んでいるときですよ」
そのときにしか使わない、甘い低音で囁くと、恋人はうっと詰まって頬を紅潮させる。すぐに反応してしまった負け惜しみのように唇を尖らせて、
「おまえは結局それかよ」
「心外ですね。人を色情魔のように言わないでください。そういう意味ではなくて……」
男はむっと眉を寄せてしかめ面をしてみせ、けれど次の瞬間には誰もが見惚れるほど幸せな笑みを浮かべた。
「あのときは、あなたの中に俺しかいない。俺だけがあなたを独占している。何もかも一切が頭から消えて、ただ俺だけがあなたの中にいる。どんなに幸福か、わかりますか」
ほとんど焦点を失った瞳の、濡れた石のような表面いっぱいに自分を映して、一心にすがり付いてくる恋人の姿。
「目もくらむほどの―――幸福です」
「……ばか」
青年は、記憶に思いを馳せて幸福そうな微笑みを浮かべる男の頬を両手で挟み、
「そんなときだっていつだって、オレの中には直江しかいねえんだよ」
世界一貪欲で、世界一無欲な恋人へ、可能な限りの情熱的なくちづけを仕掛けたのだった。
長い夜はまだ、始まったばかり。
オレンジ色に揺らめく光だけが、
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Only the candle knows ....