When the Moon Kisses Town |
when the moon kisses town 「月が街におりてくる」 その歌詞を耳にした瞬間、鮮やかによみがえってくる記憶。 たった一度だけ出会った人は、そんな詩的な表現で夜の訪れを口にした。 傷だらけの顔と体。汚れてしまった白いシャツ。 けれど彼はとても鮮やかだった。何でもないように頬の傷を拭って、笑った。 When the moon kisses town... あちこちから聴こえてくる。 流行歌をこぞって流している街中。ラジオやテレビのプロモーションビデオ映像。 俺はそのたび、彼を思い出した。矢も盾もたまらなくなるほど。 故意に記憶の底へ押し込めていた彼は、俺の中にたまらなく鮮やかによみがえった。 ほんの一夜のことなのに、思い出せばどんなに詳細か。 一番初めから、朝の別れまで。 彼の口にしたことが、一字一句の極みにまで手繰り寄せられる。 多くを話したわけではない。ほんの数時間だけの邂逅だった。たぶん、言葉で語る以上に手のひらや、小さな吐息とか、かすかな爪痕で交わったのだ。 もう何一つ、証は残っていないけれど。 そのフレーズを耳にするたびに、すべてがよみがえる。俺の中に恐ろしいほどの確かさで、彼はいた。 切望する。 望むものなど、たった一つなのだ。 かなうはずもない、ただひとつの願い。 あなたに会いたい。 この国のどこかに確かにいるはずの、名前以外に何も知らないあなたに。 あなたに会いたい。 他には何も望まないのに――― 「月が街にキスしてる」 自分の前に立ちすくんでいる見知らぬ男に彼は、ふっと空を見上げて呟いたのだ。 そんな詩人みたいな台詞を口にするタイプには全く見えない。喧嘩の後だとはっきり窺える傷だらけのぼろぼろで、それなのに彼は全く頓着していなかった。気が立っている様子もなく、まるで自分だけは別世界にいるように月を見上げた。 そのときハンカチを差し出さなかったら、きっと人生は違っただろう。 今こうしてあのフレーズを耳にするたびに湧き上がる強い感情を、知ることはなかっただろう。 あのときどうして何も聞かずにしまったのか。 後悔している。のた打ち回るほど。 けれどそれは、出会ったことに対してでも、あのときハンカチを差し出したことに対してでもない。 後悔は、出会えた喜びがあるからこそ生ずるものだ。幸福だからこそ、その思いが強いからこそ、黙って別れたことを悔いている。 58回めにあのフレーズを聴いたとき、俺は決心した。 どんな手段を使ってでも、彼を探し出そう。 一億六千万の中のたった一人を、必ず探し出してみせる。 そして、 そして…… 59回めにあのフレーズを聴いたのは、あの曲を歌っている新人アーティストが初めてテレビに出ると知り、滅多に見ない歌番組をつけっぱなしにしていた土曜の夕方だった。 「Takayaさん、この曲はご自分で作詞されたそうですが、特別の思い入れがあるそうですね?」 「ああ、はい。ある人に宛てたメッセージなんです。……気付いてもらえるかどうかわからないけど」 「直接伝えられないんですか?」 「ずいぶん前に一度会ったきりで、名前しか知らないから」 「あら。もしかして、好きな女の子ですか?ファンが泣いちゃいますよ?」 「男です。ずっと年上の」 「ずっとって、お父さんぐらいですか?」 「いや、そこまでは。十ぐらい上で」 「不思議ですねぇ。いったいどんな関係なんですか?」 「その人に取られたままのものがあるんです。一度取られたら戻ってこないものだけど」 俺はそこまで聞いて、家を飛び出した。 彼だ。ブラウン管の中で少しぶっきらぼうに司会に答えていたあのアーティストこそ、彼だった。 「月が街にキスしてる」 「メッセージ」 「十ぐらい年上の男」 「一度取られたら戻ってこないもの」 彼の言葉を反芻する。 そこに、暗誦できるほど擦り込んだフレーズを頭の中に再生すれば、答えはひとつしかなかった。 初めて出会った場所にたどり着いたときには、慣れぬ行動に体中が悲鳴を上げていた。それでも、そこにある光景の前には、塵ほどの苦痛も感じなかった。 あのときと同じ、俺をちょっと見てから、空を見上げる細長い人影。 「今日はまだ、月が見えないな」 ふうっと笑って顔を戻すのを、有無を言わさず抱きしめた。 「そっか、今日は街じゃなくてオレがキスされるんだ」 ようやく離れた唇で、半分泣いてるみたいな笑顔が作られる。 「俺は月ですか?」 「月の光はおまえの眼差しに似てる」 「月の光を見るたび、取られたものを取り返さなきゃって思いましたか」 「取り返せない。一度取られたら取り戻せない。だから」 「ずっと一緒にいましょう。誰よりも一番近くに。 あなたのハートが俺の中にあって、俺のハートがあなたの中にある。こうしていれば、同じことですよ」 鼓動を重ねてぴったりと抱き合う。あのときはまだ頼りなくて腕の中にすっぽり納まってしまったからだが、今はまるであつらえたかのようにぴたりとはまっている。 たぶん彼は俺の腕にぴったりはまるようにあつらえられたのだろう。 そしてきっと俺は彼を抱きしめられるように作られたのだろう。 When the moon kisses town, 月が街にキスしたら いつもの場所で 駆けてくる君を待ってる 時間を忘れて 白いうさぎの背中で ダンスを踊ろう 街が眠りについたら こっそり出かけよう 君のくれたハンカチを広げて 地図を描いて 宝探しの船で 漕ぎ出そう | |
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オンラインでファイル編集ができることに気付いたので、
友達のパソコンを借りて書きました。
高耶さんおめでとう!
管理人のアメリカ生活もあと少しです。日本に戻ったらまた更新再開します。
メールなどで励ましてくださった方々、本当にありがとうございました!
読んでくださってありがとうございました。
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