如煌羅星
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見せてあげたいものがあるんです、 と、忙しい弁護士はある夜、愛する伴侶に告げた。 遅い夕食を終えて洗いものをしようと立ち上がった伴侶の手を取り、出かけるから着替えてくださいと言ってクローゼットの前に連れてゆき、相手が動きやすいジーンズと綿のシャツに着替えると、手を繋いで外へ出る。 どこに行くんだ、と不思議そうに傍らを見上げる彼に、夫は微笑むばかりで答えない。仲良く手を繋いで地下の駐車場へ下りてゆくと、夫は伴侶を助手席に座らせてやり、外からドアを閉めて、自分は運転席に納まった。 「ドライブか?明日も仕事あるのに、大丈夫か?直江」 静かに車が走り出すと、助手席の青年はハンドルを握る夫を気遣うような眼差しになり、多忙を極めている彼の体調を心配したが、相手は首を振る。 「大丈夫。心配しないで。少し時間がかかりますから、眠っていてもいいですよ」 夜の街を走り抜けながら、夫は片手を伸ばして伴侶の髪をそっと撫でた。大きな手のひらが、黒い綺麗な髪の艶を楽しむように上下する。 「片手運転なんて……危ないぞ」 青年は夫から為されたスキンシップに嬉しそうに目を細めたが、状況を考えて口ではこう言った。 「気をつけていますよ。人様の示談話をまとめる筈の人間が事故を起こすなんて、ましてあなたを一緒に乗せているときに事故を起こすなんて、冗談じゃありませんからね」 夫は笑って、くしゃりと伴侶の髪を乱し、満足したように手を離すと、きちんと両手でハンドルを持ち直した。 「どこに行くのかって……聞かないほうがいいのか?」 窓の外を流れてゆく夜の景色を見るともなしに見ながら、青年が呟く。 「お楽しみということにしておいてください。大丈夫ですよ、私の体調なら心配しなくても」 「わかったよ。じゃあ楽しもう」 ミラー越しに頷いた夫に、青年は瞳の色を切り替えた。 夜のドライブは、普段あまりにも多忙なためにろくろく話も出来ないこの夫婦にとって、久しぶりの語らいの時間になった。 夫は弁護士、伴侶は司法書士という二人は、直江弁護士事務所の主軸を務めている。事務所のメンバーは二人の他に、殺人的に忙しい事務をこなしている女性二人と、もう一人の若い弁護士がいる。そして、既に引退したものの、よく面倒を看に来てくれる老弁護士が一人。 この事務所は、不当な扱いを受けて苦しむ人々のために尽力する、平たく言うならお助け屋のような弁護士たちの集まった場所だ。ここほど、ごく普通の民間人の依頼人相手に親身になり、尽力してくれるところは、そうはない。大抵の事務所では金にならない仕事として跳ねつけられた人々が最後にようやく辿り着く、そんな場所だった。 噂が噂を呼んで、この事務所は常に戦場の様相を呈している。そんな職場にある二人は、職場ではもちろん、帰宅後もなかなか仕事以外の時間を作ることが出来ないでいた。二人とも生真面目であるため、仕事の手を抜いてプライベートを優先しようと考えることができないのである。 そんなこんなで、まだまだ新婚というべき二人は今夜、久々に夫婦らしい時間を持てたのだった。 「……着いたのか?」 車が停まる気配を感じて、うとうとしかけていた青年が目を開く。 ここは、なだらかな斜面の上を走るドライブウェイの一角に設けられた休憩用の駐車スペースのようだ。ただし、時間が遅いためか、さびれた場所なのかはわからないが、彼らの他には車はいない。 「さすがにここまで来ると夜風も涼しいですね」 シフトをパーキングに入れ、エンジンを停めて、夫はドアを開いた。吹き込んでくる風は彼の言うとおり、快い涼しさを運んでくれる。 相手に倣うように青年も助手席のドアを開け、夜風を楽しんだ。 「外へ出ませんか」 やがて夫はちらりと腕時計に目を走らせると、片足を車の外へ踏み出した。 「じゃあちょっと散歩しようか?」 伴侶は気持ち良さそうに風を受けていたが、夫の申し出に嬉しそうな色を浮かべ、ドアを押し開いた。車の前を回って助手席側のドア前に移動した夫が外からドアを支えてやり、エスコートするように片手を差し出す。その手につかまって外へ出ると、心地よい風が全身を包み、昼間の暑さが嘘のようだった。 「よく晴れているから、星が見えますね」 二人は斜面の際付近へ歩いてゆき、そこで足を停めた。空を仰いでの夫の言葉に青年も倣い、暗い蒼穹へ瞳をめぐらせた。 「……あのときも、星の下だったな」 涼しい夜風に吹かれながら、ぬくもりを探すように夫の肩に自分の肩をぶつけて、彼は呟いた。 二人だけが知っているキーワードを受けて、夫も微笑む。伴侶の背に腕を回して抱き寄せると、相手は素直に頭を預けてきた。 「私たちの桃源郷、また行きましょうね。出会った場所、始まりの場所へ」 「あれは擬似楽園だったけど、そこで本当に探していたものを見つけたんだよな……」 オレはお前を。 お前はオレを。 「高耶さん」 「ん?」 名前を呼ばれて傍らを見上げると、すぐ近くに瞳があった。 とろけるように甘い瞳に魅入られていると、 「二日早いけれど、お誕生日おめでとうございます」 ほんの僅かだけ唇が触れ合って、離れる吐息と共に優しい囁きが落とされた。 「―――え、あっ!」 自分の誕生日が間近に迫っていることなどすっかり忘れていた青年だったが、彼以上に忙しく仕事をしている夫はきちんと覚えていたのである。 そのことに嬉しくなり、胸が熱くなった青年を、次の瞬間さらに驚かせることがあった。 ひゅう…… 急に聴こえてきた独特の音に反射的に目をやると、ぱっと空が明るくなった。 夜空に咲いた大輪の花、そして、遅れて届いた鈍い爆発音。 「花火だ……」 「次を見逃さないで」 目を見開いてその様子を見ている青年を、背中からゆっくりと抱きしめて、夫が囁く。 「え?」 不思議な台詞に疑問の表情を浮かべた青年は、次の花火を目にして言葉を忘れた。 夜空にひときわ明るく輝いた、『祝』の文字。 そして、続けて上げられたのは特大の枝垂れ花火。長く長く金色の糸を引いて、名残を惜しむようにその光は青年の瞳にその姿を映した。 光と音が長い余韻を残したのち、夜空は再び何事も無かったかのように星だけを映し出す。 「あれって、まさか……」 自分の体をすっぽりと胸に収めてぬくもりを分けてくれる夫へ訊ねる声は、僅かに震えていた。 「おめでとう、高耶さん」 夫は頷き、伴侶の髪にくちづけた。 先ほどの花火は、その職業柄、顔の広い夫が伝手を辿って職人に依頼した特注品である。 まるでびっくり箱を仕掛けるように、彼は伴侶にばれないよう細心の注意を払って、忙しい仕事の合間に職人と何度も打ち合わせを行っていたのだ。ただただ相手を喜ばせたいがために。 「当日は残念ながら休みが取れなかったので、前倒しですが今夜と明日を使ってあなたを祝いたいと思ったんです。本当に、おめでとう、高耶さん」 嬉しさが溢れて涙が出てきた青年は、くるりと向きを変えて夫の胸に顔をうずめている。 その背を両腕でしっかりと抱きしめ、普段あまり構ってやれないけれども愛情は有り余っている夫は、最愛の伴侶へ生まれてきたことへの感謝を囁き続ける。 やがて二つの影は一つに寄り添った。 かつて擬似楽園の人工の星の下で初めて交わしたくちづけを、今夜は本物の星を背景に交わす――― | . |