(……ん)

頬に何かが触れた。
そして、風が。
瞼を射すのは、白い光。

(……また)

頬に、そして、手のひらにも、何かが触れた。
軽くて小さくて、薄っぺらいもの。

「……さん」

『声』が聞こえる。
白い光が唐突に遮られる。

(……誰)

顔の上に屈みこんでいるのは、誰―――?


「……高耶さん」


「あ―――」


目を開けた。
この目で見るべきものがそこにあると気づいたから。

(……ああ、おまえだ)

一面の薄紅を背にした、おまえが……いる。

小さな花弁が雪のように舞っている。
おまえの背から降り注いでいるみたいだ。
おまえがオレのために桜を降らせているんだ。

「目が覚めましたか」

頬に落ちた花弁をそっと摘まんで取り除いてくれる指先には、温かなぬくもりがある。

「もう少し……眠っていてもいいんですよ」

頬に触れた手のひらには、温かな優しさがある。

「心配しなくても……桜は逃げやしないから。気の済むまで……こうしていたらいい」

髪を梳いてくれる指先に宿るのは、変わらぬ慈愛。

「あなたの眠りは私が守っているから。目を閉じていいんですよ……」

ふ……と細められた瞳には、オレが映っている。

(直江)

どうしてだろう、おまえの姿が歪んでゆく。

(直江)

ぼやけてしまう。

(直江)

おまえが見えないよ……

「どうして泣くの?何がそんなに悲しいの」

おまえの瞳がすぐ傍まで近づいて、
おまえの腕がオレの背中に差し入れられて、
そしておまえの胸にオレは縋りつく。

「桜が……綺麗だな」

(どんな素晴らしい名所でも、こんな見事な桜は見られない)

この桜は夢幻。

「おまえと一緒に桜を見られて嬉しいよ」

(欲しいものはたった一つ)

桜ではない。永遠の時間でもない。

「一緒に見るから……幸せなんだ」

(おまえと)

傍にあること。


オレは夢を見ている。これは夢。
我が侭な望みばかりを集めて作り上げた自己世界の幻想。


「望みはたった一つなんだ」

(この夢に溺れてしまえたら)

「わかっています」

(そう、本物のおまえはこんなことを言わない)

「このままおまえと逃げられたらいいのに」

(この幻想に逃げ込めたら)

「あなたがそれを望むなら」

(幻想のおまえはただ優しい)

「オレはおまえの傍に……」

(傍にいたいんだ―――)


「オレは……」


それでも答えは一つだけ。



「……直江」

「はい」

「オレはもう、戻らなきゃ」

「ええ」

「おまえが待っているから。おまえのもとへ戻るよ」

「ええ、そうですね。あなたのあるべき場所へ、お往きください」

微笑んだ直江に、抱きついた。
確かな胸へと縋りついて、背中に腕を回す。

「待っていてくれ、直江……もう少しだけ、待って―――」

甘い幻想に逃げ込むのは早すぎる。

「私はここにいますよ……いつでも、ここで、待っています」

一時の慰めをありがとう。


勝長を助けて平清盛を調伏したら、影を動かす力は尽きた。
ここは譲の作った緑のドーム。
何故だろう。目を開く気力もないのに、心は今、とても穏やかだ。
静寂に包まれた森の中、まるで戯れに草の上へ寝転がっているような気になる。
頬を風が撫でてゆくような気がする。
静かな、場所だ。


もうすぐここへ来る。
オレの足になる男が、ここへ来る。
たった一人の―――



fin.

photo by 素材カナリア
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