How Do You Want Me To Love You?
『おまえ』
・ ・ ・ ・ ・
「―――前から気になってたんだけどさ」
部屋の主の書き物机を占領して学校の勉強を復習していた少年が、一区切りついたところでペンを置いて、ふと斜め後ろを見上げた。
見上げたといっても、首を回して振り返ったわけではなく、壁際に置かれた机の真正面に据えられている鏡の中にいる相手を、僅かに目線を上げて見上げたのである。
鏡の中から少年の手元を見守っていた一人の男―――部屋の主である―――は、その問いに対してこちらも視線を変えた。
「何ですか」
鏡の中で瞳を合わせて、二人は会話する。
「直江って、古典の教師だろ?」
少年はうーんと伸びをして両腕を首の後ろで組みながら問いを続けた。
「ってことは、大学の専門は当然国語系だよな」
「正確には院の専門です。学部だけでは物足りなかったのでね」
背後の男も姿勢を少し崩して、机に軽く腰掛けるような格好になった。
少年は椅子に座ったままそちらを見上げたから、今度は鏡越しにではなく直接に視線が絡む。
「何にしても、文系ってことだろ。で、文系は文系でも、経済・経営みたいな数字を扱う学問じゃなくて、筋金入りの国語系。一般的に言って、数字を見ただけで頭が痛くなるってヤツも少なくない筈だよな。
―――なのに!」
少年は確認なのか自らへの言い聞かせなのか、些か早口気味にまくし立て、そして本題に入った。
「なのに、何でお前はオレの数3・Cの面倒が看れるんだよ?」
少年の目の前に広げられているのは、ノート1ページを費やしても終わらない、難しいわけでもないのにただただ時間と手間を食い、しかも途中の計算ミスの確率が高いために正答率が低い、長々と続く定積分の問題。
彼の背後に立って、家庭教師さながらに要所要所で誤りを指摘してくれたのは、筋金入りの文系男の筈の、古典教師である。
面白くなさそうに唇を尖らせて見上げてくる少年が、齢相応に可愛くて、対する男は唇を緩めた。
「何でだと思います?」
「知るか。昔から数学が得意だったんじゃねーの。趣味で理系の友達の教科書借りて全部マスターしたとか、いけ好かねーヤツ」
くすり、と笑われたのが余計に気に食わなかったらしい。少年はふんと鼻を鳴らして目を閉じてしまった。
見ざる聞かざる。
―――すると。
「隙あり」
―――わずかに尖らせた唇に、何かが触れていった。
「〜〜っ!」
知覚すると同時にぱっと目を開いた少年が見たものは、心底楽しそうに笑っている、意地の悪い光をたたえた鳶色の瞳だった。
「な、な、なおえッ!」
少年は、相手から為された初めてのキスに驚愕している。
この相手は、身持ちが堅いというわけではないながらなかなかの頑固者で、『教師と生徒ですから』が口癖なのだ。毎日のように遊びに来る少年はこの家の合鍵を欲しがったが、それも許してくれない。恋人らしいことなど、手を触れることすらも起こらなかった。男は以前、確かに『愛している』と言ってくれた筈なのに。あれは高熱が見せた幻だったのかと少年が首を傾げるほどには、男の態度は頑固だった。
そんな男が―――突然、こんなことを仕掛けたのである。少年が驚かないはずがない。
「今日はあなたのお誕生日でしょう。ささやかなプレゼントだと思ってください。貴重な一瞬だったでしょ」
男は既に元の姿勢に戻って机に腰掛けている。尤も脚が長いので、腰掛けるというより腿の途中で寄りかかっている感じであるが。
「……教師と生徒じゃなかったのかよ。いいのかこんなことして」
少年はようやくまともに呼吸を整えて、反撃に入った。言葉面だけを見れば詰っているように見えるが、実のところ彼は戸惑っているだけである。相手の意図が読めなくて。
「あなたが訴えない限り、問題にはならないことです。―――それとも、告発しますか?」
対する男は軽く腕を組んだスタイルでにこりと笑い、それから冗談ぽく台詞の後半を付け加えた。
「……不意打ちはやめろよな。勿体無いじゃねーか、せっかくなのに」
そろそろ正気に戻ってきた少年は、名うての教師泣かせの顔でにやりと笑って、相手を見上げる。
「わかってたらもうちょっと楽しめたのになぁ」
小悪魔めいた笑いに鉄面皮で応対して、男が首を振る。
「不意打ちだから意味があるんですよ。最初からわかっていて貰う贈り物よりも、期待していなくて貰った贈り物とでは、やっぱり後者の方が印象が強いでしょう?」
僅かに首を傾げて同意を求める男に、少年が再びにやりと笑った。
「うん、まぁ、インパクトはあるな。数3・Cの公式が一個、どっかへ吹っ飛んじまったぜ」
「おやおや、それは大変だ。……そろそろ休憩は終わりにして、また続きをしましょう」
男は両手を広げてお手上げポーズを取ると、寄りかかっていた体を机から離して再び少年の斜め後ろの定位置に戻ろうとした。
―――それを、少年が引き止める。
「オレの誕生日なんだろ。だったら今日はもう終わりにしようぜ。いいだろ?」
すい、と伸ばした手が、男の襟首を掴んでいる。そのままぐいっと引っ張って瞳を覗きこむと、相手の鳶色の瞳がやれやれとため息をついた。
「誕生日だからこそ、いつもよりたくさんの公式をプレゼントしたいところなんですが」
「げーっ、そんなのいらねぇよ」
少年が襟首を離して降参と言うように手を上げると、男は引っ張られて崩れかかっていた姿勢を戻して立ち、その高さから何気ない様子で少年を見下ろした。
「それなら何が欲しいんですか。よほど突拍子もないものでない限り、贈りますよ。事前に用意したかったんですが、あなたくらいの男の子が何を欲しがるかなんて見当がつかなくて」
―――少年は見上げた男を瞳を合わせて、しばし押し黙った。
「そんなに悩むくらいならいいんですよ。無理に考えなくても」
男は笑って相手の頭に手をのせた。
くしゃ、と髪を乱したその手を、少年がつかまえる。
男はその手が緊張してでもいるように強張っていることに目を見張った。
「高耶さん?」
「欲しいものなんて、一個しかない」
見上げてくる少年の瞳は冗談でもふざけているのでもなく、あの強いまっすぐな光をたたえている。
「おまえ」
教師と生徒は僅かな空間を隔てて見つめ合う。
「―――それはだめ」
返事は即座に返された。
一瞬だけその場にたちこめた密度の濃い空気が、男の笑みと共に霧散する。
「特定の生徒にだけ特別なものをあげるのは、教師として失格です」
「……ちぇっ」
少年は、やっぱりなと舌打ちした。
こういう機会ならばもしかしたら、と狙ったのだが、結局目の前の男は教師の仮面を外す気はないらしい。
つまらなさそうに唇を尖らせて、少年はつかまえていた男の手を離した。
今さら怒りもしないが、多少の落胆はある。相手の真意が見えなくて、どうにも掴み所がない。あのときの言葉が本当に本気だったのか、だんだんわからなくなってくる。こうして部屋へ上げてくれるのは特別扱いだと思うのだが、それは単なる気に入りの生徒に対する好意なのだろうか。
「特別扱いはだめっていいながら、個人授業はいいのかよ。基準が曖昧すぎるぜ」
少年は最後に、そう男を詰った。
「学ぶ意欲のある生徒に教えるのは教師冥利に尽きます。……それに、あなた家に上げてあげないと一晩中下の公園で待つでしょう。風邪でもひかせたらどうするんです。
―――全く、ほんとに強情なんだから、あなたは」
男は頭を撫でようとしてむすっと逃げてしまったのを諦めず追いかけ、くしゃりと髪に指を滑り込ませると満足そうに微笑んだ。
手触りの良い真っ黒な髪を梳き上げるようにして指を滑らせると、彼はむっつりと黙り込んでいる少年の頬を軽くつついて手を離し、
「今日はお終いにしましょう。ケーキを用意してありますから、向こうで一緒に食べませんか。コーヒーも淹れてあげますよ」
と甘い声で誘った。
教師らしい厳しさを引っ込めたこの男の素顔は優しくて、黙り込んでいた少年は、いい加減丸め込まれてるなぁと自ら反省しながらも頷く。
「机の上を片付けたらリビングにいらっしゃい。私はコーヒーを淹れてきますから」
先に部屋を出てゆく男に、少年は声を投げる。
「苦くしたら承知しねーからな」
男は我が侭を言う少年に楽しそうに頷いて、それから扉を閉める直前にふと、くすりと笑って中へ声を投げた。
「―――無事に卒業したら、あなたの欲しいもの全部あげるから」
え?と聞きとがめた少年が片づけの手を止めて顔を上げたとき、そこに見えたのは、静かに閉ざされた扉だった。
僅かに間を置いて、彼はがたんと立ち上がる。
見開かれた瞳は、鏡の中の真っ赤になった顔に出会う―――。
・ ・ ・ ・ ・
少年が一人であたふたしているとき、男はキッチンのコーヒーメーカーに向かって小さく呟いていた。
「数3・Cなんて、あなたのために一から勉強したんですよ、高耶さん―――」
楽しそうなその声は、やがて漂ってきた香ばしい匂いの中に溶けてゆく。
fin.
8/31
というわけで、これは「lecture」の二人でした。
一年半後くらいでしょうか。高耶さんは受験生。古典教師直江さんは、文系理系とりまぜて高耶さんに無償の家庭教師をやってあげているのです。(いちおう理系の魁に言わせれば、習ったことのない理系科目を一から勉強するのはけっこうホネだと思われるのですが、そこはN氏ですもの。彼ならやるだろう。)
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(picture by KAI)