出会いはあまり嬉しいものではなく、そしてその後の短い間にたて続けに起こった一連の出来事も決して優しく甘いものではなかった。
一年と少し前のことを思い出すと、高耶はいつもそう思う。
僅か数週間の間に目まぐるしく変化した彼の環境、それに深く関わる一人の男との関係は、今こそ平気な顔で話すことができるが、当時は随分と心に負担をかけたできごとだった。
彼の普通でない子ども時代が彼に負わせたトラウマを、そのできごとはいっそ乱暴といえるほど強烈に揺さぶり、立ち直れないほど彼を叩きのめし……そして一人の男の存在と共に乗り越えさせた。
キィワードを投げつけたのもその男。手酷く傷つけたのもその男。
けれど、他の誰にもできなかったことをやってのけたのもその男だった。
自らをさえ傷つけてきた、高耶の心の中にある深い茨の藪へ、男は躊躇せず手を突っ込み、揺さぶりをかけて、傷を受けながらも中で蹲っていた彼をとうとう引き摺り出した。
親が子どもを抱きこむように、男は心の闇から小さな頃のままの少年を連れ出し、広い腕でそっと抱きしめた。そして、目を開いた現実の高耶に親とは違う強い抱擁も与えた。
痛みも苦しみも悲しみも、そして温かさも優しさも泣きたくなるほどの愛しさも―――
その男によって与えられた。
一切の虚勢を粉々に壊して、その男が自分を『産み落とした』。
幼い頃から堰き止められていた心は全てをようやく経験し、その苦しみや悲しみが流れ去った後には、ただ穏やかな微笑みをたたえて腕を広げた男がいた。
『守る』ことしか考えずにきた自分に、男は『守られる』ことを教えてくれた。
甘えさせてくれた。
優しいだけの男じゃない、下手に触れたらこちらの体が切り裂かれる、そういう一面も知っていて、けれどそれでもいいと思った。
―――傷つくのもぶつかるのも、人間と人間が本気で対峙しようとするからなのだ。向き合いたい、知りたい、知って欲しい、その思いがあるからこそ、痛かろうが苦しかろうが人は人へ体当たりしてゆく。
―――と男が言った。
そう、痛くてもいい、知りたい。たった一人、自分に本気でぶつかろうとしてきたその男だから。
自分もそう思う。
だから、逃げないで向き合っている。
一年経ってもまだ、逃げる気になどならない。いや、一生を費やしてもそんな日は来ないかもしれない。
まだまだ男については知らないことだらけで、そしてたぶんこちらのことも全てを見せてはいないのだから。
その香りが漂うのは、ふとした動きに合わせてのことだ。
例えば、廊下ですれ違ったとき。学校ではあまり親しげな行動はとらないが、そういったときには軽い会釈で大抵のことが伝わる。そういう一瞬に、あの男の香りがする。
例えば、あの男の部屋に入ったとき。合い鍵をくれないから、いつも公園で待って、部屋に明かりが見えたら呼び鈴を押す。そうして少し驚いたような笑顔で迎え入れられた家の中に、あの匂いはひっそりとしみついている。
例えば、あの男の机に掛けて勉強を教わるとき。背後に控えているあの男が間違いを訂正しに身を屈めてくるとき、ふわっと立ち上る。
そんな一つ一つのシーンが好きだと思う。
いろいろな場面であの香りは記憶に刻まれる。逆に、あの香りにふれると様々なことを思い出す。
あの男に関するどんな些細な記憶にも、あの匂いはひっそりと刻まれているのだ。
切っても切り離せない関係にある、柔らかな香り。
直江という男の甘さも優しさも含有しながら、同時にその内側に存在している激しさや鋭さも、あの香りには表現されていると思う。
シャネル、エゴイストプラチナム。
あいつに贈るなら、これしかない。
fin.03/05/03
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