何で、こんなことになるんだ。
商売道具のグラスをきゅっきゅっと些かうるさいほど大きな音をたてて磨きながら、一見クールに仕事をしているように見える若いバーテンの青年は、内心では限りなく大きな声でありとあらゆる悪態を吐き散らしていた。
事の起こりは、同僚の一人が不運にも通勤途中に信号無視の車に轢かれそうになったという事件だった。反射神経の良かった彼は幸いにも身を捻って直撃をかわしたが、道路に倒れこんだ際に足の骨にひびを入れてしまったのである。その程度で済んだのは彼にとっては不幸中の幸いだったが、奈何せん、今ここで猛烈な迫力でグラスを磨き上げている青年にとっては、まさに青天の霹靂、予想もしなかった不運となった。
というのはどういうことか。
街中のうきうきした空気を見ればわかるとおり、今日は恋人たちにとって一年に一度の特大イベントの日―――クリスマスイブなのである。その大切な日の夜に、世間の恋人たちが羨ましさのあまり揃って青くなるほどラブラブな恋人を持っている青年は、このとおり職場でグラスを磨きたてている。
つい先ほどまで世の恋人たちのためにその手でシェーカーを振り回していた彼は、……そう、怪我をして立ち仕事のできない同僚のシフトを埋めるために、本来ならばしっかりと休暇を取って恋人とディナーを楽しんでいるはずだったこの夜に、仕事に駆り出されてしまったのである。
普段は忙しくて構ってくれない恋人も今日は休暇を取ってくれて、一日付き合ってくれるはずだったのに。
グラスを磨く手がガラスを握りつぶさんばかりに激しいのも、無理の無いことであろう。
青年は決して怪我をした同僚を恨んでいるわけではなく、また、申し訳なさそうにシフト交代を頼んできたマスターに腹を立てているわけでもない。彼らは何も悪いことをしていないのだ。
ただ、自分をこんな目に合わせた『何か』に、猛烈に腹を立てているだけだ。
できるだけ早く帰るからと電話したとき、無理はしないでくださいと返した恋人の声が普段よりも沈んでいたのを思い出しては海よりもため息をつき、二人で食べに行くはずだったディナーのことを思い出してはシェーカーを猛烈に振り回す彼に、気の毒に思ったのか商売道具を破壊されるのを危惧したのか、マスターは山のようなグラス磨きを任せて、カウンターの奥へ追いやったのである。
(でも、結局一番腹が立つのは、直江と一緒にいられないことだ)
本当はディナーなんかどうでもいい。クリスマスであろうとなかろうと関係ない。
とにかく、一日べったり一緒にいられるはずだった恋人と引き離されてしまったのが、腹立たしくてならない。
つまりはさみしいのだ。
何せ、クリスマスイブの深夜とあって、落ち着いた雰囲気が売りのこのバーでさえ、恋人たちの撒き散らすうきうきムードで騒がしい。楽しそうに、幸せそうにくっついている二人連ればかりを相手にしながら一人でグラスを磨くことの孤独感ときたら。
カラン……とドアにとりつけられたカウベルが鳴った。
いらっしゃいませの会釈を送るためにそこへ目をやった青年は、新たに入ってきたその客を見て、思わずグラスを取り落としそうになるほど驚いた。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ。いつものでよろしいですか」
「ええ」
上質な光沢を放つ黒いロングコートを脱いでカウンターに席をとった男は、マスターと慣れた遣り取りを交わしてから、奥で固まっている青年を見つけると、ふわりと微笑んだ。
恋人の出現に青年は、直江!と叫んで駆け寄りたい衝動に駆られたが、ここは職場で今は仕事中だ。辛うじてその衝動を押さえ込み、相手を見つめるだけに留めた。
「お相手してさしあげて」
恋人達の事情を知るマスターが気を利かせて肩を叩くのをありがたく受け、努めてゆっくりと『客』の前へ立つ。
「こんばんは、高耶さん」
男はマスターの寄越したグラスを口元へやりながら、低い声で恋人に話しかけた。
「直江……どうして」
「あなたと食事できなくて落ち込んでいたんですが、よく考えたら、一緒に過ごすことはできるじゃないかと気づきまして。こうしてお客になれば、あなたを見ていられる」
「直江……やり残した仕事があるって」
一緒に食事ができないと聞いて、じゃあ私は学校へ行きますと言っていた男が、今目の前にいる。
「そんなものは後回しです。……ご迷惑でしたか」
「ばかやろう」
既に周りにいる人間のことなどきれいに視界から消し去っている二人が、当然のように顔を寄せてキスを交わそうとするのを、ぎりぎりのタイミングで滑り込んだマスターが、自らの体を張って客の視線から隠したことを、当の二人は勿論知らない―――。
★ ☆ ★ ☆ ★
fin.
04/12/21
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