「どうぞ、その鍵で開けてください」
男の住まう白いマンションの扉の前で、少年はポケットに手を入れた。
つまみ出したのは、手のひらに収まる小さめの鍵。鈍い銀色で、体温を移してほんのり温かい。
男がくれた合鍵を右手に持って、鍵穴にあてがう。
「そう、そのまま、時計回りです」
奥まで差し込み、少年はくいっと右回りに鍵を捻った。
ガチリ、と確かな手ごたえがあって、開錠する。
鍵を差したままノブを下ろして手前へ引くと、扉は音も無くするりと開いた。
初めて合鍵を手にして男の部屋へ入った瞬間だった。
「あぁ……」
高耶は中へ一歩踏み込んで、まるで自分を待っていたかのような柔らかで温かな空気に包まれた。
「今のここは、あなたのいる場所の一つです」
背後からついて入って後ろ手に扉の鍵を掛けた男が、両腕を伸ばして、高耶の胸の前で一つに組んだ。
ぽす、と後ろへ凭れかかり、高耶は目を閉じる。
危なげなくその体重を受け止めた男は、組んでいた腕をほどいて高耶の胸を抱いた。
「直江……」
やがて、男の腕の中で全身でその存在を匂いを感じていた高耶が、目を開けた。
「なんですか」
「上がっていい?」
「勿論。あなた専用のスリッパも置いてありますよ」
男の声に従って足元を見ると、高耶が好んで使っていたモスグリーンのスリッパがきちんと並べて用意されている。
「あなたのマグカップもテーブルに。特別に美味しいコーヒーを淹れてあげるから、一緒に飲みましょう」
「ああ。……だから、ちょっと腕を緩めろよ」
色々な提案をするくせに、男は高耶を後ろから抱きしめたまま腕の力を緩めようとしない。
「そうですね」
生返事をしても、やっぱりそのまま。
「なあ」
段々熱を帯びてゆく自分の体にどこかおびえながら背後に訴える。
「ええ」
男はますます強く高耶を抱きしめた。掻き抱くという形容があてはまるほど。
「なおえってば……」
焦れて上を向くと、唇が落ちてきた。
「―――ぁ」
腕の力が一層強くなり、はなはだ不自由な姿勢で、くちづけが始まる。
そっと、触れて、離れて、もっと触れて、離れて、深く、重なって、もっと、深く、深く、甘く……
しびれてしまうほど、甘い。
甘くて、熱くて、体中がざわざわと蠢き始めて、立っているのもやっとになる。
いつの間にか体を反転させられ、正面から抱きしめられて唇を貪りあっていた。
熱い、熱い、頭の中が燃える……。
とうとう目が眩んで崩れ落ちそうになったとき、男がぎゅっとその体を抱きとめた。
ちゅっと小さく音をたてて、唇も離れる。
唇の端をそっと舌先で舐め取り、男は上気した頬に愛しげにキスを落とした。
「ひゃ……」
男の所作のあまりの甘さに、高耶は毒でも盛られたかのように体を痺れさせる。
これまでのあの堅さとはまるで別人のような、甘い恋人の仕草だ。同じ人間なのに、こうも違うものなのか。
「ん?どうしたの、何を驚いているの」
口調まで変わってしまっている。教師らしい厳しい物言いだったはずが、今は幼い子どもをあやすような、まあるい柔らかさだ。
「そんなうろたえたような顔をすると、こうですよ」
とてもとてもいとおしげに頬に触れ、瞼を下ろして顔を近づけてくる。唇を求められているのだと気づいて、慌てて目を閉じた。
「んっ……?」
けれど、唇が落ちてきたのは、鼻の頭だった。
目を開けると、楽しそうに目を細めている男の顔があって、また硬直する。この瞳に見つめられると、瞬き一つできなくなる。
「私が何か変わったというわけではないんですよ。先生ではないただの私としてここにいるだけ」
ちゅっ、と頬にくちづけ。
「こっちが本物の私なんです」
ちゅっ、と耳の横にくちづけ。
「もっとも、お預けくらった一年の分が堰き止められていたわけですから、今の私は五割増しくらいには甘くなっているんですが」
ちゅっ、とこめかみにくちづけ。
「ストイックな私の方がお好みでしたか?」
最後に、ちゅっと唇にくちづけ。
両手のひらで頬を挟まれて微笑まれると、言葉が無くなる。
「何とか言ってくれませんか。そんな風にびっくりした顔で呆けていられたら、可愛すぎて……」
ぼおっと見上げている高耶に、男はますます愛しげに目を細めた。
「ねえ、おうちへ帰してあげたくなくなってしまうでしょう……?」
それはキャラメルよりも甘い囁きだったが、その瞳は裏腹に理性的だった。教師の仮面を被っていたときよりはずっとオープンに愛情を示しているけれど、ぎりぎりのところでまだ一線を保っている目だ。
「家に……帰すつもりなのか?」
少年は頼りない声で呟いた。
「そうですよ。今日は泊めてあげるわけにはいかない」
男はとても愛しそうに少年の瞳を見つめながら、けれどはっきりと答えを返す。途端、少年の瞳がカッと燃え上がった。
「ふざけんなよ!結局お前はオレを子ども扱いしてんじゃねーか!オレは二年近くも行儀良く待ったんだ。やっと生徒じゃなくなったのに、今更まだガキ扱いなんてさせねーからな!」
少年は男の腕を振りほどき、乱暴に靴を脱ぎ捨てた。明確な意思を以って家の中へ上がりこみ、床を踏みしめる。
「オレは帰らない。オレはオレのしたいようにする。お前が何を心配してんのか知らねーけど、そんなもの見当違いだ。……ああ、それとも、お前はオレのことなんて、ただのガキとしか思ってなかったわけか?さっきのキスは、気まぐれでくれてやっただけか。お前は大人だもんな、あんなこと何でもないってわけか」
自らの言葉に傷つきながら、少年は吐き捨てるように言い続ける。
「全部オレの一人芝居だったってことか。背伸びして手を伸ばしてみっともないくらい欲しがって、サイアクだな―――」
その棘立った言葉は唐突に遮られた。
ゆっくりと靴を脱いで床へ上がった男が、ふいに足元から掬い上げるようにして少年をソファに押し倒したのだ。
「あなたは子どもだ」
「離せよ!」
「何もわかってない。誰よりもあなたの帰りを待っている人のことすら、忘れてしまっているんだ。あなたは子どもですよ。本当にね。私が大人なのと同じくらいにはね。私がどんなに苦労して自分を抑えているか、あなたにはわかりっこない」
「なおえ……?」
少年は易々と自分を組み敷いた男が、やりきれない表情でため息をつくのを、不思議な気持ちで見上げた。男の腕はびくともしないけれど、動きを封じる以上のことは何もしようとしていない。瞳は熱いけれど、熱よりも苦労の色がより強かった。
「あなたは今日だけは家族に祝ってもらわなければいけないんです。とりわけ妹さんにね。あなたには私がいるけれど、妹さんにはあなたしかいないんですよ。あなたの卒業を祝う権利を一番持っているのは、妹さんなんです」
少年は相手の言いたいことをようやく理解し、何か言おうと口を開いたまま、何を言うべきか迷って言葉を探した。
おとなしくなった少年に、元教師は努めて静かな声音で続ける。
「だからね、今夜はおうちで祝ってもらって、明日は外泊許可を貰ってここへいらっしゃい。その後は私があなたを独占させてもらいます。もちろんあなたにも私を独占させてあげるから」
「……」
少年は頼りない顔で相手を見上げ、目が合うと、先ほどまでの取り乱しようを恥じるようにさっと赤くなった。そしてそんな自分に腹を立てたようにむっと顔をそむけてしまう。
そんな少年の表情を、男は愛しげに瞳を和らげて見つめ、そしてゆっくりと体を退けた。
「……実のところ、私は怖がっているのかもしれません。あなたがあんまり一直線だから、引き摺られそうになる。そんな風に突っ走ってしまうかもしれない自分が怖いのかもしれません」
少年を玄関まで送ってやり、屈んで靴紐を締めている彼の背中に向かって男は呟いた。
「子どものように一心にのめりこんでしまうことが怖く思えるんですよ。そんな風になった自分をこれまで知らないから。どんなに格好の悪いところを見せてしまうかわかりません」
靴紐を締め終えた少年がすっくと立ち上がり、男を振り返ると、相手は苦笑めいたものを唇にたたえていた。
そんな男の言葉に怒り出すかと思いきや、少年はふいににやりと唇を吊り上げた。
「何を今更」
少年は手を伸ばして男の襟首をつかまえた。ぐいと相手を引き寄せて自分は伸び上がり、唇が触れるほどの至近距離で不敵に笑む。
「みっともないところなんか、お互い見慣れてるだろ。―――そんなことで逃がしてなんかやるもんか」
噛み付くようにキスをして、少年は身を翻す。
「覚悟しとけよ」
扉を開けて去り際に、彼は傍目に見れば喧嘩を売っているようにすら見える迫力の眼差しで男を睨みつけた。
「―――だからあなたが好きなんだ」
閉ざされた扉の向こうを見つめていた男は、とても楽しそうに笑って呟いた。
明日になれば、きっと彼は朝一番にここへ来るだろう。
そわそわしてたら追い出されたんだ、と言い訳をして、俺を睨みつけるだろう。
本当は我慢していられなくて自分から飛び出してきたくせに、全然そんなことはないような顔をして、そのくせ必死に俺を凝視するのだろう。
そういうところが嫌になることだって、時にはあるかもしれないけれど、
そういうところが好きなんですよ。
あなたは知らないでしょうけど。
覚悟しなきゃいけないのはあなたなのに、
覚悟しろよとあなたは言う。
そういうところが好きなんだ。
そう。
俺は可愛い あ な た
俺は可愛い暴れ馬を乗りこなすために、どんな覚悟だってするでしょう―――
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