古き時代―――
龍皇の接吻を受けたものは、不老不死となり、永遠に皇を佐けたという。
龍皇の接吻を受けた者は、不老不死となり、永遠に皇の側に仕え、これを佐けた。
龍一族に伝わる故事だ。
この故事から取って、龍一族では、龍皇に永遠の忠誠を誓うことを、『龍の接吻を受ける』と表現する。
次代の龍皇はその言葉を用いて男に命じたのである。永久に側を離れず仕えよ、と。
香港の表と裏を取り仕切る―――すなわち東南アジアの華人社会に君臨する―――龍皇が、裏社会でその名を知らぬ者のない殺し屋に言うような言葉ではない。裏には裏の常識というものがある。それをわきまえるなら、決してありえない申し出だ。
殺し屋は、自分の首を捉えて間近から見据えてくる龍皇に、半ば絶句した。
「あなたはご自分が何を仰っているのか判って……」
「おまえは俺のものだ。永遠に」
やがてその唇が僅かに動いて生み出された言葉に、相手は即座に返答した。
その瞳は生き生きと輝き、常識にとらわれている男をたじろがせるほどまっすぐだった。有無を言わせない口調には、しかし反発心を抱かせるような居丈高な響きはなく、むしろふらふらと従ってしまいそうになる揺るぎなさがある。
「私は直江だ。龍皇を滅ぼそうとした男ですよ。それでも?」
その衝動をこらえて尚も問いかける男に、
「おまえは、おまえだ。義明であるし、直江だ。俺は『おまえ』に接吻を与えたんだ」
次代の龍皇は、龍というよりも猛虎の如きその瞳に一層力を込めた。
牙も爪も持たぬ力無き人の子は、そして―――観念したように、ゆっくりと一度瞬いた。
「……あなたは、私に何を望むのです?」
一度の瞬きで気配をがらりと変えた男に、青年は満足げな光を瞳に浮かべて両腕を絡み付ける。首にぶら下がられる格好になった男はその重みに引き倒されぬよう気をつけながら、楽しげに唇の端を吊り上げている青年に訊ねた。
「俺の片腕であれ。それだけだ」
確かに猫科の生き物だと確信させる蠱惑的な瞳の色で、青年は男を見上げる。けれどもその瞳は決して男娼の如き『縋る』媚を浮かべるのではなく、裏社会に君臨する王者に相応しい妖しさで目の前の獲物を見つめた。
「『直江』が龍皇の片腕になれると思いますか」
王者の瞳に見入るように目を細めながらも、男は苦笑の皺を隠せない。相手の意思の堅さに関しては半ば諦めているのだろうが、それでも言わずにはおれないという様子だ。
「義明として俺の傍にあるのなら、それでもいい。直江としてでも構わない。俺がおまえを雇う。永久雇用でな」
対する青年は、相手の持ち出す『常識』など歯牙にもかけない表情で即答する。
「そんな馬鹿なこと」
龍家が許す筈が無い、と言いかけた口を塞いで、
「
こ こ香港
では俺が法律だ」
龍というよりも獅子か虎のような瞳をきらりと光らせるに至って、ひたすら楽しそうに笑う青年に男は今度こそ諸手を挙げて降参した。
「何て皇様だ。殺し屋をボディーガードにしたいだなんて」
「ボディガード?そんなものにこんなことを許すわけがないだろう」
首に巻きつけた腕をぐいと引いてもろともに寝台へ倒れこみながら、次代の龍皇は笑っている。
「
こ こ寝台
では、おまえに舵をやる」
「光栄です」
先ほどまでの名残を呼び覚ますように獣の喉元をつっと撫で上げた男に、龍の化身は白い蛇のようにくねって首筋を露にした。
「表では、俺に従え。ただ従うのではなく、共に立て」
男を煽るような仕草の一方で、その瞳だけは強い意志の光を忘れない。男の首に両腕を絡めて甘えるように見上げていながら、その口から出る言葉は絶対的な君臨者のそれだった。
「私は皇の隣に立つ器ではありませんよ」
男は相手を値踏みするように目を細めて瞳を観察しながら、低く喉で笑って否定したが、
「おまえが立たないのなら、空席になるだけだ。おまえ以外の誰にもその場所は与えない」
見上げる瞳は真剣そのもので、決して冗談を言っているのではなかった。自分の傍らという位置を許す相手はおまえ一人だと。
「……どうして、それほどまでに私を買うのです」
男は諦めとも呆れともつかぬため息をついてから、ふっ……と甘い笑みを浮かべた。
「理由が必要か?」
じっと相手を見上げ、次代の龍皇は、先ほど相手が告げたのと同じ台詞を口にした。
―――永遠を感じた、その一瞬に、名前をつけることなどできはしない。
男は頷きの代わりに、甘くたっぷりとくちづけを与えた。
「……っ……」
離れた唇からこぼれた息を奪うようにもう一度くちづけ、かっと赤くなるまで蕩かせた後で、
「それで、俺への報酬は、これですか……?」
と細い腰を抱き寄せる。龍皇は自ら伸び上がるようにして相手に体をすり寄せ、その耳元で笑った。
「
こ こ寝台
ではおまえに舵をやると言っただろう。それ以外でも、俺の手の届く範囲のものなら、何なりと取るがいい」
「いいえ、あなただけで充分だ」
他には何もいらない。
男は先ほど狂おしく愛した体をもう一度その腕に抱き、点々と散らばった華にくちづけた。
東南アジアの華人社会に君臨する龍一族の次期当主と、全世界の要人の恐怖と畏怖の的になっている凄腕の殺し屋。
決して相容れぬ立場にある二人は、世界の掟も、生殖の理も踏み越えて、一つの灼熱になる。
その魂を契約する。
「体なんていくらでもくれてやる。おまえが去らないためになら、何にでもなってやる。望むなら、どんな優れた指導者にでもなってやる」
「いいえ。あなたはあなたのままであればいいんですよ。それだけでいい」
現世の戦場に二人、並び立つ。引き返す道はない。死ぬまで息つく暇もない。
同じ時に終わりを迎える保証もない。
男は主と決めた相手のために身を投げ出すことを至上の喜びとするであろうから。
共に歩く修羅の道を選んだ二人は、終わりの無い淵を凝視しつつ、終わらせない決意で瞳をきらめかせる。
「あなたが存在することが、私の生きている証です」
「約束だ。絶対、最後の瞬間まで、二人で笑っていよう」
絡めた指がきつく握り合わされ、瞳の奥底まで見渡したとき、龍皇は愛しい分身に誓いの接吻を与えた―――