『今度はストレートでダージリンをご馳走しますよ』
その言葉に甘えて遊びに来ようというのは、あまりにも図々しすぎると思うのだけれど。
彼は一冊の本を貸してくれていたから、それを返すという名目があるから、またこのドアを叩くことができた。
本を返してしまったら、そして妹が退院してしまったら、もうここへ来る理由が無くなってしまう―――と思ったのだけれど。
彼は訪れるたびに新しい本を一冊ずつ貸してくれたから、毎回『次にまたここへ来る約束』ができた。
そんなことを何度も繰り返して―――
またあの日が来る。
: : : : : : : :
「―――いらっしゃい、高耶さん」
扉を開けると、いつもそこには穏やかな笑顔がある。
出会うとほっと外の寒さを忘れてしまう、暖かさをたたえて。
彼はとても優しい人で、だからこそこんなにも快く訪問者を迎えてくれる。本来ならば勤務中で忙しいはずなのに、約束の時間にはいつも暇を作って待っていてくれる。
彼は、心の病や、体の病に伴う心の傷をケアするカウンセラー。
とても穏やかで、けれど頼り甲斐があって、ただ話を聞いてもらうだけで力がわいてくるような、不思議な人。きっと彼のような人だからこそ、カウンセラーという仕事に適任なのだろう。
たくさんの患者が彼を慕い、無事に退院したのちも連絡を寄越すらしい。そんなたくさんの人たちが届けた思いが、この彼の部屋を満たしているような気がする。
壁に掛けられた瑞々しい緑の写真。撮った人の視線がどれほど生き生きとしたものであったか想像がつく。
お茶好きの彼のためにと贈られたティーセット。不思議な形をした珍しいポットは、どこか遠いところで買い求めた土産物のようだ。
状差しには、溢れるほどの便り。達筆の年配者からのものもあれば、拙い子どもの字もある。
応接セットを飾るカバーも、レース編みのテーブルセンターも、みんな、患者さんからの贈りもの。心のこもった手作りの品だ。
高価なものは決して受け取らない彼だから、みんなの持ち寄る品は殆どが彼ら自身の手で生み出された手作りのものばかり。
こうやって、彼の患者たちはみんなでこの温かい部屋を作り上げているのだろう。
―――彼の患者となった人は、この部屋の至る所から漂う素朴な人の手のぬくもりによって癒されるのかもしれない。かつてその人と同じように彼の患者としてこの部屋を訪ねたたくさんの人々の、同じ思いに満ちた場所だから。
彼は彼を訪れるたくさんの人々のために、いつもその微笑みを絶やさない。常に変わらぬその温かな微笑みが、誰の心も落ち着かせ、癒してゆくのだ。たくさんの心を、彼は微笑みながら受け入れ、そして解放する。
……ああ、あなた様らしい……
え?
ふいに心の中に見知らぬ思考が湧いて、驚く。
今心の中で喋ったのは一体誰だ?
全く唐突に、自分の思考とは違うものがぽろりとこぼれ出た。自分の中に何か自分のあずかり知らぬものがあるかのようだ。
―――それなのに、嫌悪感は湧いてこない。なぜなのだろうかと思うよりも早く、目の前の人がこちらの心の動きに気づいて声をかけてきた。
「どうしたんですか?何か今、不思議な顔になっていましたよ」
さすがは心のプロだ。自分でもよくわからないような内部の変化に一早く気づいている。
あの包み込むような鳶色の瞳で見つめられて、心がなだらかに静まってゆくのを感じた。この瞳を見つめていると、何も心配することなどないのだ、と自然に心が落ち着いてゆく。それはさながら魔法のように。
自分を包み込む優しい瞳に抱かれていさえすれば、何も怖いものはない。
目の前に今、確かに彼がいるのだから。
……そう、彼がいるのだから……
「ん、何でもない。ところで今日はどんなお茶?」
「今日はストレートでダージリンを淹れてあげますよ」
「楽しみだ。……借りてたの、ここに返すぜ」
「ああどうぞ。また続きを持っていってくださって構いませんからね」
すっかり落ち着いた心が口を滑らかにする。
慣れた遣り取りを交わして、様々な雑学本の宝庫である本棚へ歩いてゆき、借りていた本を返した。
非常に個人的な『図書館』に通い続けて、もう一年になる。『イギリス紅茶の淹れ方』という本に始まり、まずはお茶関係のものばかりを読み漁っていたが、その後また別の分野の本にも浮気をし始めると、彼に会いに来る口実という以上にこの『図書館』にのめりこんでいる自分に気がついた。
今日返しに来た本は『「アインシュタインは間違っていた」は間違っていた』という何だかへんてこりんな題名の本だが、『アインシュタインは間違っていた』という本に対する反駁本で、特殊相対論に特に興味があるわけでもなかったのに、ずんずんと読み進めてしまった。
続きとして借りようと思っているのはさらにへんてこりんな名前の『アインシュタインはやはり間違っていた』という本で、これはさっきの本に対するさらなる反駁本らしい。しかも、この本に対するさらなる反駁本も存在するそうで、題名は察せられるとおり『「アインシュタインはやはり間違っていた」はやはり間違っていた』だ。科学の真偽云々にまつわるバトル本というのは実に面白い。
ソファに戻り、雑学本の宝庫から取ってきた『やはり間違っていた』をぱらぱらとめくっていると、煮立った湯を前にして深緑色の缶のふたをポンといい音を立てて開けながら、部屋の主が声をかけてきた。
「もう一年になりますね」
いつから、とは言わなくてもわかる。
ちょうど一年前の今日、突然の夕立によって知り合い、この部屋へ初めて足を踏み入れた。
形成外科に入院していた妹の見舞いの日にはいつもこの部屋からよく見える中庭を散歩した。その妹は疾うに退院して、今ではすっかり元通りの生活に戻っているけれど、自分は彼女の見舞いという口実を無くしてもここへ通い続けている。この部屋の主が趣味で揃えている雑学本を毎回一冊ずつ借りては返しを繰り返して一年だ。
そんな些細な言い訳をこしらえてでも、この部屋へ来たかった。
この部屋の主である医者と交わす、何でもない会話が好きで。
彼の元患者たちの思いが作り出す温かな空間が好きで。
そして、彼の淹れてくれる甘い紅茶が好きで。
「一年も通ってるのに、借りてない本のほうがずっと多いな」
はぐらかしたような返事を寄越しても、相手は微笑を深くするだけ。
「全部読みつくそうと思ったら、まだまだ何年もかかりますよ」
そんなに先まで約束を取り付けてもいいのだと、彼の目じりの笑いじわが語る。
ぐらぐらと煮立ったヤカンの湯へ紅茶の葉っぱを播く彼の瞳は湯の中に浮かんでは消える激しい泡を見つめているようだが、その細められた瞳の優しい鳶色を―――目で見なくても知っている。
……さま……
また、心の中に不思議な言葉が浮かんだ。
このうえなく愛しげに誰かを思い、その人の名を呼ぶ声。
見知らぬ思いでありながら、おかしいとも気味悪いとも思わず、むしろ満たされたような思いが心の中一杯に広がっているのは……なぜだろう。
「また不思議な顔をして、本当に今日はどうかしたんですか?ほら、もうお茶が入りましたよ」
銀のトレイにのせたポットとカップの一式は、一年前と同じ白地に青い小花模様。
この部屋には何セットも茶器があるのに、今日これを使うのは、きっと意図的にしたことなのだろう。
だって、その証拠に、あのときミルクティー一杯に角砂糖四個も入れた彼は、
「今日のこれはノンシュガーでいきますよ。ダージリンはストレートでね」
と片目を瞑って見せる。
去年の今日と同じにしてみたり、違いを指摘してみたり、彼も一年後の今日という日を意識しているのだろう。
「さあ、どうぞ召し上がれ」
ことことと音をたててカップに注がれた熱い琥珀色に、自分の顔が映っている。
とても嬉しそうに笑っている顔が。
そして、目の前にいる人の瞳にも、同じ自分が映っているのだろう。
……いとしい鳶色……
「いただきます……」
口当たりのよいカップを傾け、淹れたての紅茶を味わう。
手の中には温かいカップ。
目の前には柔らかな微笑み。
二人の人物を囲む背景は、手作りのぬくもり。
それはとても―――幸せな時間。
ずっとずっと、こんな時間を探していた。夢見ていた。
そんな気がする。
遠い昔に出会った気のする夢。
……―――さま……
探していたものを見つけた。
あなたとわたしのさがしもの。
一年前の今日、きっと見つけたのです。
fin.
04/02/14
|