妹が事故に遭った、と聞いたとき、自分を襲ったのは得体の知れない恐怖だった。
足下が抜け落ちるような、奈落の底へと落ち込む幻惑。掛け替えのない存在を喪うことへの恐怖が身をすくませる。自分の足下を支えていた大地をこの手から喪うかのような、とてつもない恐怖感だ。
―――まるで、前にもこんなことがあったかのような気がした。
そう、ずっと―――前に。
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捨て子だった自分と、そんな自分が拾った妹。
互いが互いを必要とし、いつでも手を握り合って育ってきた。里親となってくれた人と養子縁組して戸籍上も兄妹となった今も、昔も、変わらず堅い絆で結ばれている。
それが恋愛感情にならないのが不思議なほど、自分たちは愛し合っていると思う。
この世にただ一人の身内もなく、たった独りだった幼い自分はあの寒い日、施設の外を掃きに出たとき、小さくなって震えている女の子を見つけた。まだ二歳くらいの、本当に小さな子が、寒い中で一人置き去りにされていた。
自分の足音に気づいて勢いよく振り向いたその子は大きな瞳を涙で一杯にして、縋るような眼差しをしていた。
自分を見た瞬間に、そこには絶望の色が浮かんで、そして、とうとう声を上げてうずくまってしまった。
おかあさん、と―――戻ってこない人を呼びながら。
どうやって彼女の傍まで歩いていったのか覚えていない。
とにかく、冷えきった小さな肩を揺すぶってこちらを向かせたことと、目が合った瞬間に小さな手で自分の服を握り締めたことを、今でも忘れない。
その氷のように冷たくなった手を握って施設の中へ入ってゆくときに、自分は悟っていたと思う。
お互いが、お互いを求めているということを。決してこの手を離してはならないということを。
守るべき小さな存在を得たとき、ようやく自分には自分の大地が見つかったのだと思った。
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真っ白になった意識を現実に引き戻してくれたのは親友の声と腕をつかむ手の感触だった。
それからのことはよく覚えていない。引かれるままに病院へ連れてゆかれ、案外ぴんぴんしている妹を見たとき、堰を切ったように安堵が押し寄せた。
「お兄ちゃん、来てくれたんだ」
ベッドに横たわった妹は、足を包帯で巻かれていたがそれ以外には目立った怪我もなく、意識もしっかりしていた。同じ病室の患者たちとも打ち解けて明るい笑い声をたてる様子は、まるで普段と変わりがない。
事故の加害者であるという若い女性もその病室に居て、蒼白な顔をしているオレに深く頭を下げてきた。
「ごめんなさい。美弥ちゃんの怪我はあたしのせいなの。バイクで転倒して、そのとき美弥ちゃんを巻き込んでしまったんです―――」
その言葉に妹が即座に首を振った。
「ううん!お兄ちゃん、綾子さんは悪くないんだよ!
だって、道の真ん中にいた仔猫を避けようとして転んだんだから。びっくりして逃げられずにいた私にも責任はあるし」
深く頭を下げる『綾子さん』にも、肘や足に怪我があった。彼女が加害者だと聞かされていたオレは本当なら顔を見た瞬間に怒鳴るところだったが、事の真相を聞けばそんな気にもなれなかった。
猫を避けて転んだということ自体、自分にも経験がある。それで妹を巻き込んでしまったというのはどうしようもないことだ。
ただ、妹の怪我が痕の残るようなものでなければいいのだがと思った。
「ねぇ、お兄ちゃん……怒っちゃやだよ?綾子さんは悪くないの。お願い、怖い顔しないで……」
黙っているこちらを心配そうに見て、妹はそんな風に懇願した。
兄が自分をどれほど大事にしているか、彼女もよくわかっている。だから、これまででもいじめっ子に髪の毛を引っぱられたといえば三倍返し、たちの悪い軟派男に付きまとわれたといえば決闘騒ぎ、という経歴を考えれば、今回のようにひどい怪我をしてしまった場合に兄がどんなに怒るかということは容易に想像がついたのだろう。
相手の女性に落ち度がないことをわかってもらおうと必死の様子に、安心させるよう笑いかけてやった。
「……で、その仔猫はどうなったんだ?」
額の縦皺を解いて顔を上げると、妹は笑顔になった。
「ちゃんとお母さんのところに帰ったよ。怪我もしてなくて、元気に鳴いてた」
「そっか。よかったな」
妹もバイクの女性も、女の体に傷をつくってしまったけれど、肝心の仔猫は無事に助かったという。せめてもの救いだった。
「仰木さんのお兄さん、担当の先生がご説明したいと申しております。こちらへ来ていただけますか」
ノックのあとに自分を呼ぶ声がして、検温に来た看護婦と入れ違いに病室を出た。
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医者の説明は難しくはなかった。美弥の怪我の治療についてかんたんにまとめたあと、一つアドバイスを与えてくれた。
「傷はいちおう塞がっています。ただ、ここは外科ですので縫合が粗いのです。形成外科で何度か手術し直した方が痕は目立たなくなります」
なにぶんにも女の子のことですからね、と同年代の娘を持つというその医者は真剣な眼差しで言ってくれた。
男ならともかく、女の子にとって体に傷が残るということはひどくつらいことであろう。それがゆえに性格が変わり、人生そのものの展望にも影響が出ることが稀ではない。
「本人と相談してきます」
そう答えたものの、すでに心は決まっていた。費用が嵩もうとも、妹のためには何でもしてやりたい。自分の唯一無二の宝なのだから。
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費用のことは結局問題なくなった。例の綾子という女性が、保険でおりるからと申し出てくれたのだ。彼女自身も形成外科への転科を決めていたので、妹は心細く思うこともなく二人で転科した。
それからの自分の日課は二人を見舞うことだった。
楽ではないであろう手術の連続にも愚痴をこぼさず挑む二人に、毎日せめてもの土産話を持って会いにゆく。いつの間にか例の女性とも仲良くなって、まるで三人兄弟のようになっていた。
そして、日課はもう一つある。
二人を見舞った後の散歩だ。この病院は患者が気を塞いでしまわないようにと広い敷地に芝を植え、森をつくって気持ちの良い散歩コースを作っている。そこを一周してのんびりと日光浴を楽しむのだ。
今日も同じコースを歩いていた。途中のベンチに腰掛けて目を閉じると、ふと眠気に襲われた。そういえば昨日は遅くまでバイトだったんだ。思い出すのと眠りに落ちるのと、どちらが早かったのだろうか。
目覚めたとき―――正確には、起こされたとき、自分はすっかり寝すごしてしまっていたことに気づいた。
「もうすぐ雨が降りますよ」
自分の隣に掛けて肩を揺すってくれた相手は、曇り始めた空を指してそう言った。
「……あ」
言うそばから頬に冷たいものを感じて、傘を持たない自分は困った顔になってしまう。そんな様子を見た相手は、ふと立ち上がってこちらを誘ってきた。
「日が暮れるまでには止むそうです。それまで雨宿りしていらっしゃい」
よく見れば相手は白衣を身につけている。ここの医者であるらしい。
見ず知らずの相手に、それも暇ではない筈の医者に世話になってよいのかと躊躇うこちらに、相手は微笑んだ。
「遠慮はいりませんよ。寒空の中に患者を放り出すような医者はいません」
いつかどこかで出会った気がする、温かな微笑だった。
「……オレ、患者じゃないけど」
ついて歩きながら呟くと、彼はそうでしたかと頷いた。
「お見舞いだったんですね」
庭を見渡す棟の一階にある部屋の扉を勝手知ったる様子で開けながら言うのに、頷く。
「いつもあのコースを散歩しておいでだから、入院しているのかと思っていましたよ」
「いつも?」
どうしてそんなことを知っているのだろう、と見上げると、相手はああと言って自分の名札を指さした。
「私はカウンセラーなので、いつもこの部屋にいるんですよ。話をしに来られる方がいないときは庭を眺めているんです」
それでいつも同じコースを散歩している自分を覚えていたらしい。何だか恥ずかしくなった。知らないうちに誰かに見られていたなんて。
しかし不思議と嫌悪感は湧かなかった。相手の温かな眼差しを見れば、意地悪な好奇心から観察していたわけではないとわかるから。父親が子どもの遊ぶさまを見守るような、そんな優しい眼差しだ。
「どうぞ掛けてください」
「ありがとう」
勧められた小さなソファに腰掛けると、彼は部屋の片隅にある調理台から顔だけで振り向いた。
「紅茶とコーヒー、どちらがお好きですか?」
コーヒーメーカーとやかんを前に、聞いてくる。調理台の上には豆の状態のコーヒーを詰めた瓶と、紅茶の缶が数種類も並べられていて、ちょっとした眺めだった。
「いや、お構いなく」
部屋におじゃましてさらにご馳走になるのはあまりにも遠慮がなさすぎる。
しかし医者は首を傾げて微笑んだ。
「遠慮はいりませんよ。口が寂しいと会話も進みませんからね。どちらがいいですか?」
優しい瞳が幼稚園のときの園長先生を思い出させた。
そういえばあの先生もよく園児を部屋に招いてお茶を煎れてくれたものだ。
懐かしい気持ちになりながら、
「えっと、それじゃ、紅茶……」
「わかりました。ミルクかレモン、それともストレート?」
「う〜ん……何でもいいけどな」
なぜ紅茶を入れるよりも先にそれを聞くのだろうと思いつつ首を傾げると、彼はふむ、と顎に手をあてる。
「じゃあ今日はミルクにしましょう。アッサムで」
ずらりと並んだ深緑色の缶の中から一つを取り上げて、医者は楽しそうに微笑んでいる。
「アッサムでロイヤルミルクティーにするのは好きなんですよ。特にこんな天気の日には甘くて温かいのがいい」
いわゆるハンサムな男だから、ブラックのようなクールなものを好むかと思いきや、実はこういうメルヘンなものが好きらしい。なんだかほほえましくて笑ってしまった。
「あ、笑いましたね。侮っちゃだめですよ。甘いものは心を和ませてくれるんですよ」
冷蔵庫から取り出した大きな瓶入りの牛乳をミルクパンにたっぷりと注ぎ入れ、火に掛けながら彼は片目をつぶって笑った。
考えようによってはひどく気障な仕草なのに、彼がすると嫌味がない。こちらもつられて笑い出してしまうような和んだ空気が漂った。
「さて、と。ミルクが温まるまでのつなぎにお茶をどうぞ。若い人には苦いかもしれませんが、まぁたまにはいいでしょう」
炎を調節してから、彼はこちらに向き直って湯飲みに急須を傾けた。注がれた緑茶はほんのりと温かく、体にゆっくりとしみわたっていった。
「オレのこと若い人とか言うけど、あんたは幾つなんだ?」
ふと疑問に思って見上げると、こちらをじっと見ていたらしい彼と視線が合って、少し戸惑う。彼は面白そうな目をして、首を傾げた。
「幾つに見えますか」
「二十代じゃないだろ。三十……四十にはならないよな」
考えれば考えるほどわからなくなる。
やわらかな物腰や穏やかな口調は随分落ち着いているけれど、容貌は決して老けてはいない。顔立ちと体つきは若い男のものだが、醸し出す雰囲気が、若いというイメージに否応なしに付随する軽さと食い違う。
「おやおや、四十路に見られるとは私も老けたものだ」
彼はくすりと笑って、逆に尋ねてきた。
「ところであなたはお幾つなんですか」
「オレ?19だけど」
「あぁ、それなら私とは11歳離れていますね」
「11?ってことは……30なんだ」
「そうですよ。三十路にさしかかったばかりです」
「へぇ……」
何だか納得できるような不思議なような。
唸っていると、彼がふいに立ち上がった。
驚いて見上げると、彼は調理台に大股に近づいて、パンを取り上げた。
「ミルクが温まりました。これは吹きこぼれたら大変なんですよ」
「ああ、それでか。いきなり立ち上がったから何かと思った」
「すみません、驚かせて」
彼は小さく頭を下げて、先ほどの緑の缶の蓋を開けた。ティースプーンの先を引っかけて梃子の要領で開かれた蓋はポンと勢いのいい音をたてて、何だか楽しくなる。
彼はスプーンで五杯分の茶葉をミルクの中に撒いた。
「牛乳に直接葉っぱを入れるのか?お湯は?」
そういう紅茶の入れ方を初めて見て、疑問がわいてくる。好奇心一杯の様子に医者が楽しそうに笑った。
「ロイヤルミルクティーはこうしてミルクベースの入れ方をするんですよ。お湯は使いません」
「へぇ……。それでちゃんと味が出るのか?」
「お湯で入れたときとは違う感じになりますが、出ますよ。ほら、見てごらんなさい。色が出てきたでしょう」
「あ、ほんとだ。ちょっとだけ匂いもする」
「アッサム葉の香りはダージリンと張るくらい好きです。ダージリンならストレートが一番ですよ」
「ふぅん」
嬉しそうに微笑みながら葉っぱの解説をするさまがやはりメルヘンだった。ちっとも変な感じはしなかったけれど。
「さあ、もうそろそろいい頃合いです。そこのセットをテーブルに持っていってくれますか」
「これか?わかった」
白地に青い小花の散った茶器一式を揃えて並べてある盆を持って、ソファの前のテーブルに移動すると、いい匂いをさせたミルクパンを片手に医者もこちらへ来て、ティーポットに中身を注ぎ入れた。
それからどうするのかと見ていると、彼はコルクの鍋敷きの上にポットを置いて、それから袋のようなものをすっぽりと被せた。
「それ何?」
「あぁ、これは蒸らしている間ポットがさめないように被せておくものです。冷めると中の変化が悪くていい味が出ないんですよ」
「へぇ……面白いな。そんなこと全然知らなかった」
「何でも、ほんのちょっと調べるとずいぶんたくさんのことがわかるものですよ。要は興味を持つかどうかの問題です」
「う〜ん、ちょっと耳が痛いかも」
こちらが苦笑すると、彼はおやおやという風に笑った。けれどカンにはさわらない。決してこちらを馬鹿にしている様子はなかったから。
「難しく考えなくていいんですよ。たとえば今紅茶に興味を持ったんでしょう?それなら図書館なんかで一冊本を借りてきて読んだら随分面白いですよ。そのくらいの気分でいいんです」
「はは。そうだな」
「何でしたら私の本を貸してあげましょうか。雑学好きなので、けっこう色々な本があるんですよ」
「え、いいのか?」
思いがけない彼の申し出に子どものようにわくわくしてしまう自分を自覚して、ちょっと驚いた。
「いいですよ。この部屋にも何冊かありますけど、持って帰りますか?」
「ほんとに?嬉しい。ありがとう」
早速壁際の本棚から数冊を抜き出して渡してくれるのを受け取ると、『イギリス紅茶の淹れ方』とあった。ぱらぱらめくってみると、カラー写真が豊富で親しみやすい感じだった。
「その本は楽しいですよ。世界の銘茶紹介が載っているので店なんかで見かけると嬉しくなったり」
「へぇぇ。よし、いろいろ研究して煎れてみる」
「がんばってくださいね」
にこにこしながら頷いた医者は、時計に目をやってポットの覆いを除けた。
温めたカップに静かに注がれた液体は綺麗なベージュで、とてもいい匂いがしている。
「砂糖はお好みでどうぞ」
角砂糖の詰まったガラス瓶を持ってきて、彼は自分のカップに三つ落としこんだ。銀色の華奢なスプーンで静かにかき混ぜる姿は妙にはまっていて、何だか見とれてしまう。
「たっぷり砂糖を入れた方がおいしいですよ。遠慮せずにどうぞ」
言いながら彼はさらにもう一つを追加している。
カップ一杯に角砂糖四個。
若いハンサムな男が取るにはメルヘンすぎる光景なのに、別段おかしな感じはしなかった。
なぜだろう、と内心で首を傾げながら自分も三つ入れてみる。
口当たりの良い高価そうなカップから喉に流し込んだ一口は、これまでで一番優しくて甘い味がした。
「すっげーうまかった……ごちそうさま」
自分は甘いものが苦手だと思っていた。けれど、どうやらそれは擬態だったらしい。早く大人になろう、大人の味に慣れよう、と粋がって、そういう風に自分を騙していたのだ。子どもっぽい味覚なんて自分にはもう関係ないのだと強がって。
自分は本当は優しい甘さに飢えていた。遠い昔、母親からもらっていたはずの乳のような、そんな甘さを、本当は今でも求めている。それを認めるのがこわかっただけだ。既に失ったものを求めてしまう、その弱さが。
けれど今、この穏やかな医者の煎れてくれたミルクティーが、その強がりをそっとほどいてくれた。空いていた穴を優しく埋めてくれた。
自分はもう、昔の甘さを求めない。弱さも求めない。自分の手で今という時間に甘さを見つけよう。
そのきっかけになってくれたこの医者に、きっと一番にふるまおう。自分で入れた初めての優しいお茶を。
「また……来てもいい?」
帰り際にドアのところで振り返ると、戸口まで送りに来てくれた彼は微笑んで頷いた。
「この時間は大抵患者さんがいないんです。また散歩の後に寄ってください。今度はストレートでダージリンをご馳走しますよ」
―――貸してもらった本を大事に抱えて帰る道で、ふと、お互いが名前すら告げずにいたことに気がついた。
fin.