baby,baby!―――日常編



 うわあぁぁん……

「た、高耶さん、明ちゃんが泣いてます」
 ネクタイを締めかけていた男が片手にそれをつかみ、もう片方の手に背広の上着を引っかけたなりでリビングダイニングに出てきて、キッチンスペースに立って忙しく動いている青年を呼んだ。
「ん〜おむつは替えてやったしな。たぶん腹が減ったんだろ。
 悪ィけど今手が離せねーんだ。こっちに連れてきてくれる?」
「はい、わかりました」
 頭だけで振り返ってそう頼む青年に男は頷き、上着とネクタイをソファの上に放って、盛大な泣き声の聞こえてくる部屋へ向かう。
 赤ん坊はベビーベッドの中でばたばたしながら誰かの手を待っていた。
 男がそこに屈んで両腕でそっとその小さな生き物の背を抱き上げると、赤ん坊は濡れた瞳で男を見上げてひくひくと声をつまらせる。
「おはよう、明ちゃん。おなかがすいたの?」
 まだ慣れない手つきながら、男は背を揺すぶってあやしてやる。赤ん坊は大きな瞳でじっと男を見上げて、訴えるように、ふえ……と声を上げた。
「すぐにお父さんのところに行きますからね、泣かないで」
 そのつぶらな瞳に殆どノックアウトされた気分で、男はゆっくりと歩き出す。赤ん坊を驚かせないように振動を極力抑えての移動である。
「いい子ですね。もう泣きやんだ。おなかが空いたというより、寂しかったのかな」
 独り言めいた言葉を赤ん坊に向かって呟きながら男はリビングダイニングにたどり着く。
 青年が振り返って微笑んだ。
「なんだ。泣いてねーじゃん。明のやつ直江が来てくれるの待ってたんじゃねぇ?」
「そうかもしれませんね。なんて可愛い子なんでしょう……」
 男はすっかり赤ん坊の虜である。きっと職場の人間が見たら目を見張るであろうとろけた笑みを惜しげもなく赤ん坊に向けてあやしているその姿に、青年は半ば吹き出しそうになった。

「でもきっと、明ちゃんはお父さんに抱っこしてほしいんだと思いますよ。ねぇ、明ちゃん?」
 男はひとしきり赤ん坊を可愛がったあとで、その小さな体を青年の方に向けた。赤ん坊は父親の姿を認めたのか手を伸ばして触ろうと試みる。
「明、今ちょっと手が離せないから後でな。待ってろよ」
 青年は今すぐにでもぎゅうっと抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、フライパンと格闘中ではどうしようもない。
 出勤する男のために朝食をこしらえているのである。その手を休める気はなかった。
 けれど男の意見は異なるようである。
「目玉焼きですか。後は私がやりますよ。こちらはいいから明ちゃんにミルクを作ってあげてください」
 赤ん坊に一番大事なのは親とのスキンシップでしょう?と男は片目を瞑った。
「そうかな。でもいいよ、すぐ焼けるからさ。直江が相手してやって。昼間はオレしかいないんだしさ、朝だけでも直江が明と遊んでやってくれたら喜ぶ」
 青年はそんなことを言ってまたフライパンに戻る。
「そうですか?それならお言葉に甘えて」
「ん、すぐできるからテーブルで待ってろよ」
 男は嬉しそうに赤ん坊を抱きなおしてあやし始めた。
 赤ん坊はこちらも嬉しそうに男に遊ばれている。ぐらぐらと揺すぶられてきゃっきゃっと声を上げ、こぼれんばかりの笑顔を見せた彼女に、男は男でめろめろである。
 感動のあまり力一杯抱きしめそうになって、彼は慌てて自制した。
「おい、できたぞ!」
 そんなことをしているうちに青年は朝食の支度をすっかり整えてしまった。
 できたての目玉焼きに胡椒をふって、レタスをつけた皿の上にのせ、コップにグレープフルーツジュースを注げば、トースターから香ばしい香りをたててパンが飛び上がる。
「いつもながら絶妙のタイミングですね」
 赤ん坊を膝に乗せながら椅子に掛けた男が感心した声で唸った。
「主夫が板に付いたってことだろ。なんたって旦那様を送り出す大役だからな」
 くすりと笑って目をぐるりと巡らせた青年に、男は見とれてしまった。
「ふむふむ。するとあなたはさしずめ新妻というわけですね。素敵な奥さん」
「ばぁか」

 からかい合う二人に、いい加減にしろとばかりに意見した小さなものがある。

「……あぁ、明ちゃんが拗ねてしまった」
 二人が構ってくれないことに不興をおぼえた赤ん坊は小さな声で泣き出してしまった。
 大きな黒い目をうるませてひくひくと喉を詰まらせる様子があまりにも可愛くて、男二人は食事も忘れてしまう。
「明ちゃん、泣かないで。お父さんを独り占めしてごめんなさい。返します」
「ごめんごめん明、お前を忘れたわけじゃねーぞ。ほら、高い高い〜」
 そして二人がかりで懸命にあやしてやると赤ん坊はようやく笑顔を見せる。
「あぁ笑った。可愛いですね……」
「そうだな。……あ、直江、時間!」
「あ、忘れていました。急いで食べないと」
「遅刻しねーか?なんだったら残して出かけてもいいんだぞ」
「あなたが折角作ってくれた朝御飯を残すなんてそんな勿体ないことできませんよ」
「……言ってろ」
 青年は照れたように赤くなって、赤ん坊ごとふいっと背を向けてしまう。
「高耶さん」
 寂しいからこちらを向いてください、と訴えると、
「弁当入れてやるからおとなしく食ってろ」
 照れ隠しとわかるぶっきらぼうな口調で青年は返事をする。
「……はい」
 男はそれがわかるから、優しく微笑んで頷く。

 十五分後、男は青年に送り出されて出ていった。鞄の中に『愛妻弁当』を詰めて。

 そして青年は赤ん坊と二人で残される。
「よし!今日はいい天気だ。洗濯と掃除と買い物と散歩だ」
 さながら主婦のように、彼は猛然と家事に取りかかるのだった。

 午前中に家事を済ませて、彼は昼下がりには赤ん坊と一緒に公園へ出かける。
 一昔前ならば公園デビューと相成るところだが、昨今は小さな子どもと母親が公園で遊ぶ光景は滅多に見られない。気持ちの良い晴れた日であるが、公園にはやはり犬の散歩以外の人影はなかった。尤も、口下手な青年にとってはあまり賑やかでないほうがありがたいのだったが。
 親子は広い公園でベンチに座ってゆっくりひなたぼっこして、ときどき散歩中の飼い犬たちと遊んで、そして夕方が近くなるとスーパーへと向かう。
 晩御飯の献立を考えながら青年はスーパーの中をぐるぐる回り、すばらしい経済観念のもとに食材を買い揃えて帰途につくのだった。

 風呂を沸かし、キッチンからいい匂いがし始める頃、玄関のチャイムが鳴る。
「お帰り、直江!」
 青年はエプロン姿で扉を開け、入ってきた男に抱きつく。
 最初の時以来すっかり定着した、お帰りなさいの挨拶だ。
「ただいま、高耶さん」
 男も青年の背中を抱き返して微笑む。
 まるで新婚家庭のような光景だが、実際にはそういう間柄ではない二人だった。今は、まだ。


 青年は食事の片づけをすると、ベビーベッドに寝かされている赤ん坊にかがみ込んだ。
「そろそろお風呂に入りますか?」
 ダイニングでコーヒーを片手に新聞を広げていた男がそれに気づいて声をかける。
「うん。直江はどうする?」
 胸に赤ん坊を抱えて立ち上がった青年が振り向きざまに問うと、男は既に椅子から立ち上がっていた。
「もちろん入りますよ。明ちゃんを抱っこする人間がいないとあなたが大変でしょう。それに、この間買ってきたおもちゃを明ちゃんも気に入ってくれていますしね」
 風呂の壁のタイルにくっつくウレタン製のパズルや、いわゆるビーチボールのことだ。
 赤ん坊は本質的に好奇心の塊である。何にでも興味を示して遊び学ぶ彼女に日々開眼させられる思いをする男たちなのだった。
「おし、そんなら入るか!めい〜おふろだぞ〜」
 赤ん坊を機嫌良く揺さぶってやりながら声をかける青年は本当に嬉しそうで、男もまたそんな二人に目を細める。

 ―――やがて、一家三人が消えた先のバスルームからは、賑やかな笑い声が聞こえてきた。


 湯上がりの三人はリビングで少し休憩をして今日の出来事などをとりとめなく話した後、赤ん坊がうとうとし始めるのをきっかけに寝室へ引っ込む。
「おやすみなさい、高耶さん。明ちゃん」
「おやすみ、直江。ほら明、おやすみだぞ、おやすみ〜」
 寝ぼけ眼の赤ん坊は青年の手に従って男へ手を振り、男は頬をちょんと突つくことでそれに答える。
 そして男は主寝室へ、青年と赤ん坊は客室へ、それぞれ引っ込んで朝まで別々に眠るのだった。



 ひょんなことから一緒に暮らすようになった親子と男は、すっかり馴染んで一つの家族を作っている。
 まだ法的には他人同士が同居しているだけの関係だったが、男はとうに心を決めていた。
 あと少しで青年は成人の誕生日を迎える。その時こそ、入籍届を彼に渡して判を押してもらおう。法律上も完全な『家族』になるのだ。

 入籍届というのは、多様化する家族の形態を象徴する一つの新しい制度だった。例えば恋人の関係でない人間たちが家族として一緒に暮らしたいと望む場合、少し前までならば法的には何の保証も持つことができなかったが、この制度が導入されてからは様々な形の『家族』が生まれるようになった。
 『入籍』する家族の構成員には血の繋がりは無くともよい。婚姻関係も無くてよい。ただ彼らが共に一つの『家』を構成する意志さえあれば、彼らを『家族』という一つの共同体として法律的に認める―――そのような意味を持つのだ。
 また、いわゆる恋愛関係にある者たちは『婚姻届』を提出して『伴侶』という共同体を認められる。すなわち、恋人たちが家族を作る場合には、彼らは『婚姻届』と『入籍届』の両方を提出して『伴侶』と『家族』の関係を認められることになる。むろん、場合によって同居をしない恋人たちも世の中には存在するので、そういう人間たちは『婚姻届』のみを提出して『伴侶』となるのだった。

 実のところ、男はとっくに青年を好きになっていた。ただ、それを相手に言うつもりはなかった。むろん、『伴侶』になってくれと頼むつもりもない。

 現在、法律的には、同性同士であっても『婚姻届』を提出すれば『伴侶』であると認められる。しかし、男には、それを青年に持ちかけることはできなかった。
 最初に青年を連れて帰ったときからそれが目的だったのだ、と誤解されることが怖かったのだ。そして、世話になっている相手に頼まれたら嫌とは言えないであろう青年の性格を考えれば、とても告げることなどできようはずがない。
 義理で受け入れてほしくはなかった。決して。そんなことになるくらいなら、最初から『家族』でいい。こうして毎日傍にいてくれるだけで本当に幸せなのだから。
 妙なことを言ってもしも青年が嫌々ながらここに暮らし続けるようなことになってしまったら、どんなに後悔しても足りない。
 今こうして青年の笑顔を見ていられることが、最高の幸せ。
 それを壊すことは決してしたくなかった。


 男は知らない。
 青年の気持ちが自分と同じものになっているということを、彼はまだ知らない。
 家に置いてもらっているだけで多大なる迷惑を掛けているのに、そのうえ、好きになってしまっただなんていう迷惑でしかない想いを押し付けてしまうことは到底できない、と懸命に自分に言い聞かせている青年のことを、男は知らなかった。


 別々の部屋に引っ込んだ二人は、それぞれに甘い苦しみを抱えて幾度目かの夜を越える―――。



fin.
明日(既に今日)は新刊発売日。
ということで、新刊の後の息抜きになればと思って明ちゃん話をUpしてみました。(ついでにおまけのバスタイムイラストをこちらに。)

6/30(のつもり)
出会い編はとりあえず一段落ということで、これはその後の日常編です。時制でいうと、去年の723限定の分より一ヶ月ほど前のことになります。
―――というわけで、ほのぼのした日常の風景と、悩める夜のお話でした。
二人は高耶さんのお誕生日の時点ではまだ、この関係なのです。仲良し家族だけれども、恋人というわけではなく。
……それでどうなるのか、ということについては、記念日限定部屋の「baby,baby!」の前編・中編につづく後編をお待ちくださいvv

お読みくださってありがとうございました。