baby,baby!―――甘い香りとその効用



 どうしたらいい……。

 寝かしつけた赤ん坊の傍らに添い寝してやりながら、橘家の主夫である青年は呟いていた。

 万に一つ、広い世界の中で奇跡的に巡り会ってこの家にやってきて、まだ数週間。そんな僅かな間に、とてつもない問題に直面してしまった青年である。
 医者でも草津の湯でも治せない病気―――そう、恋の病に―――彼は取り付かれてしまっていた。
 そのお相手がこれまた厄介な人間で。
 この家の主、彼ら父子の面倒を看てくれている優しくておっとりした男が、想う相手なのだ。
ただでさえ全くの他人の二人を家に住まわせ養ってくれているという多大なる負担をかけているのに、その上恋心まで向けられたら、男にはどんなにか迷惑なことであろう。
 青年のため息は止む気配もない。

「……」
 その上、あの男は恐ろしく鈍感で、こちらがそんな悩みを抱えているなどとは夢にも思っていない。家庭人の父親さながらにいそいそと帰宅し、休日は家族サービスを惜しまない男だが、それはあくまで家族への気遣い。どう間違っても恋愛感情が芽生える様子ではない。

 いっそ世話になっている礼代わりに体でも要求してくれればと、とんでもないことを思ってしまうほどには、青年は行き詰っていた。

「……でも、いやだろな……」
 相手はごく普通の感覚を持った男である。恋愛の対象になるのはある程度の年齢を越えた女性だけであろう。それは青年のほうも同じだったのだが、今となっては昔の話だ。
 ところで、そういう感覚の男にとって突然同性から迫られることがどれほど驚愕すべきことであろうかは容易に想像がつく。
 直江はきっと、目を見開いてしばらく固まってしまうだろう。
「だよなぁ……」
 青年のため息はやはり、止む気配もない。
「―――何でこんなことになったんだろ」
 一体いつからこんな風に好きになってしまったのだろう。

 最初はたぶん、甘えてもいいのだと知った広い胸に触れたときだろう。そして、頭を撫でてくれた 優しい手。
 落ち着かせるように名前を呼んでくれるのが好き。
 帰宅して自分と赤ん坊を抱きしめてくれる腕が好き。
 料理に舌鼓を打つ笑顔が好き。
 時折ふわりと香る匂いが好き。またたびに触れた猫のようにふにゃふにゃになってしまう自分を知っている。

 直江はほぼ完璧と言っていいほどの、いい男だ。
 黙っていればよく切れる有能さを窺わせる理知的な顔。でも、自分と明の前ではいつも笑顔を見せてくれる。
 笑ったときのあの瞳がどんなに優しいか。
 甘い微笑を浮かべた顔は厭味のない二枚目で、髪と目ははちみつ色がかった綺麗な茶色。
 体全体のバランスだって見とれるくらいきれいだ。肩も背中も頼りがいのある広さで、腕は誰かを守るためにあるかのような強さを持つ。そして、その胸の中に飛び込んでいって懐いてしまいたいと思わせるような広い胸をしている。
 大きな手のひらは、それで頭を撫でられると全身から力が抜けてしまう気がする。

 長い指で喉をくすぐられるのが好きだ。猫みたいにごろごろ言って甘えたくなる。そう、あいつが大きな牧羊犬で、オレは野良猫。明はさしずめ、小リスといったところか。
 三人で、よく晴れた気持ちのいい日に公園に出かけて芝生に転がると、まるでそういうものになった気がする。
 家の中にいるときなんて、傍から見たら恋人みたいに、べったりくっついている。リビングに大きな茣蓙を敷いて昼寝するときは、陽だまりで丸くなって眠る猫だんごのようだ。暑苦しいはずなのに嫌がりもせず許してくれているあの男の背中に張り付いて、昼寝。あいつの懐には明。
 人の体温がこんなに心地いいなんて、知らなかった。大きな背中に張り付いているととても安心する。
 あいつは、だから『母親』なのだ。ウェンディたちのナナと同じ、温かい体をした大きな犬。もしくは、オレと明を大きな翼で抱き込む親鳥。


「直江、優しいからなぁ……」
 いつでも背中で腕を広げていてくれる。意識して気を使ってくれるときだけではなくて、ちょっとしたさりげない仕草すらも優しいのだ。
「オレ、単に甘えたいだけなのかな」
 恋だなんて呼べるものじゃないのかもしれない、と呟いた青年は、しかしすぐに首を振った。
 ただ単に優しい腕が欲しいのなら、こんなに切なくならない。欲しいなら欲しいと言えるはず。
 現実にはとてもそんなことできなくて、おいでと言われたときだけそれに乗じてくっつく。
 守ってくれる親が欲しいのなら、名前を呼んでくれる唇に見とれたりなんてしない。触れたいなんて思わない。
 家事を一通り済ませてしまった後、夕方の男の帰宅を待つまでの長い間、考えに考えてたどり着いた結論がこうだったのだ。間違いなんかじゃない。
「いつか出て行かなくちゃならないってのに……」
 厄介な情を芽生えさせてしまったものだ。
 別れがつらくなるだけなのに。
 別れの時を考えただけで胸が痛むくらいに哀しいのに。
 確実にやってくる『そのとき』、自分はみっともなく泣き喚いたりせずに礼を言って出てゆくことができるのだろうか……。
「……無理だ。絶対、ムリ……」
 青年は唇を噛んできつく瞼を下ろした。




 一方、橘家の家長は今日もアフターファイブを楽しみに仕事に励んでいた。
 もちろんそれはデートを心待ちにするのとは違い、早く帰宅して家族の顔を見たいという理由である。
 帰宅したらお帰りと言って抱きついてきてくれる青年の愛しさ。
 すっかり自分になついてしきりと抱擁の腕を求める赤ん坊の愛らしさ。
 二人の待つ家へ帰ることが男にとって何よりも嬉しく待ち望んだ時間なのだった。
 そんな彼に、周りの部下たちの眼差しも優しい。女性のいない職場なればこそといえる穏やかさであることは否めないが、少なくとも彼の下にいる者たちは皆、課長の醸し出す柔らかな幸せ色を好いていた。
 元々穏やかな表情を崩さない人だったが、家で待つ人を得て以来の彼は、身を固めた人間特有の落ち着きをも上乗せして、さらに癒し系化が進んでいるのだった。それに伴って、有能さと外見に憧れを抱く他の課の女性たちだけでなく、尊敬と安らぎを感じた男性陣からも男の支持率は跳ね上がっている。

「―――お疲れさまです、課長」
 待ち望んだ定時、男が片づけを始める前から周りがそう声を掛ける。
 男の家庭人ぶりは既に周知のものとなって久しい。よほどのトラブルでも起こっていない限りは是非ともこの癒し系の課長を一刻も早く温かい家に帰してやりたいと考える、理解ある部下たちなのだった。
「君たちもお疲れさま。お先に失礼しますよ」
 書類をまとめ、とんとんと揃えながら男は微笑んだ。
「ああ、俺らもすぐに帰りますから」
「家族や恋人のいる人たちは寄り道なんてしないようにね。品行方正が第一ですよ」
 男が返した茶目っ気たっぷりの台詞も、これまででは聞けなかったような類のものだ。淡々と真面目に仕事をこなしていただけの彼とはまるで別人のように、言動が柔らかくなっている。
 人生、持つべきものは帰る場所だな、と部下たちはしみじみ心に刻むのだった。



「直江、お帰り!」
 今日も元気なタックルで出迎えてくれた青年を抱き返し、男は幸せそうに微笑む。
「ただいま、高耶さん。今日も一日ご苦労様でした」
「直江こそお疲れさま。風呂も飯もできてるぜ。どっちにする?」
 まるで新婚夫婦のような会話だが、二人の実際の状態には微妙なずれがあった。
 青年はまっすぐに男を見つめ、男はそれを微笑みと共に受け止める。
「まずはあなたの作ってくれた夕食からね。それから三人でお風呂に入りましょう」


 風呂上りに、男のパジャマの隙間から微かに立ちのぼる香りが、青年は好きだった。
 今日も、明と三人でのバスタイムを済ませてリビングのソファに並んだ男からは、その甘い匂いが漂っている。周りにいる人間をそっと包み込んでしまうような、微かなラストノート。

「直江、いっつもいい匂いがするよな。何をつけてる?」
 青年は膝の上で夜も元気一杯のお姫さまをあやしてやりながら、傍らの男の肩にことんと頭を凭せ掛けた。
 男は赤ん坊の小さな手のひらに自分の指を与えて遊んでやっていたが、その台詞に応えて視線を青年へと移動させる。
「あぁ、これですか。そうですね……明ちゃんが眠ったら私のところへいらっしゃい。実物を見せてあげますよ」


 やがて、おねむになった赤ん坊は青年に抱っこされて寝室へ引き上げ、男も自室へ引っ込む。
 会社から持ち帰った書類を書き物机に広げてペンを握った彼は、定時に退社する引き換えにと自らの睡眠時間を少し削って家で仕事をするのだった。
 書類に目を通しては疑問点や訂正箇所に書き加えをしてゆく。そこには部下のまとめた企画書もあれば、自分が作成して少し熟成させてからもう一度目を通すことにしているものもあった。勢いで作成したものには必ず粗があるのである。二日ほど時間を置いてから見直すとそれらがはっきりと見えるようになるので、彼は自分の仕事のやり方を最低でも二段階に分けるようにしているのだった。

 ―――トントン

 あらかたの作業が終わったころに、扉を叩く音がして男は顔を上げた。
「―――直江、入っていいか?」
 赤ん坊を寝かしつけてきた青年が扉越しに律儀に問う。
 椅子の上で伸びをしながら部屋の主はどうぞと声を掛け、手元の書類をとんとんと机に打ちつけて揃えると、ファイルに挟み込んだ。
「仕事してた?邪魔したならごめんな」
 部屋に入ってきた青年がその様子を見て少しだけ首を傾げる。
 男はいいえと首を振って微笑んだ。
「ちょうど終わったところですよ。明ちゃんは眠りましたか?」
「ああ、ぐっすり。昼間の散歩で随分きょろきょろしてたから、疲れたんだろ」

 青年は部屋に入ると同時に自分を包み込んだあの匂いに半ばうっとりしながら、椅子から立ち上がった男のそばへと歩いていった。

「これですよ」
 部屋の主は机の端に寄せて置いてあった直方体型のびんを手にとって青年に差し出した。
 厚めのガラス容器の中には、薄いトパーズ色の液体。
「あぁ、あまり鼻を近づけて嗅ぐとツンとしますよ。原液はきついんです。つけた後は段々落ち着いてきますけれどね」
 青年が銀色に光る蓋を外してスプレー口を鼻先へ持ってゆくのを見て、男はそんな風に言葉を添える。
「……シャネル?気障なモン使うんだな。……似合うけど」
 青年はびんの正面に書かれた文字を読んで眉を寄せた。それは悪い意味ではなくて、実のところ緩みそうになるのを懸命に抑えているためだったのだが。
 男はそんな青年にふふっと笑って机に腰掛けた。

「―――これはね、反抗期に身につけた習慣なんですよ」

「反抗期?……って、例の中学時代のことか?うわぁ、こんなの中坊がつけてたのかよ?何てかっこつけた野郎なんだ」
 鸚鵡返しに呟いた青年は、楽しそうに笑っている男に対してますますむうっと眉を寄せた。
「ええ。まぁ、あっちこっちから突つかれましたよ。担任には呼び出されるわ、周りからはからかわれるわ、……それなのにあの両親は意にも介さないんですよ。つまんないでしょ?
 でも意地だから、止めませんでした。それで結局現在まで続いているんです」

 男は当時を思い出しているのか、肩を揺らしている。自分が原因の騒動のことや、ムキになっていた青い過去の自分を、彼は笑うのだろう。

「へぇ……。けっこう直江ってムキになるタイプ?」
 青年は蓋を閉めなおしたびんを机の上に戻すと、くすくす笑いをする男を見上げて問うた。
「かもしれません。暖簾に腕押しの親に対して反抗するあたりが、コドモですね」
「今の姿からは想像できねーな。こんなに落ち着いてるのに」
「そうでもないでしょう?」
 椅子に腰掛けて男を見上げる青年へ、男は手を伸ばした。
「だって私はあなたと明ちゃんを引き止めておくためになら何でもしますよ。どんなに子どもっぽいと言われようと、譲らない」
 ぱふぱふ、と手触りのいい黒髪を叩いて、男は微笑む。

 ―――優しい鳶色の瞳の奥に、まぎれもない愛情がたたえられていたことを、青年は知らない。

 真っ赤になって俯いてしまった彼は、やがてがばっと立ち上がって男の手から逃れた。
「お、おやすみっ」
 慌てた仔ウサギのように駆けて行ってしまった青年は、一旦扉の向こうに消えてから、しばし間を置いて躊躇いがちにこそっと顔だけを覗かせると、

「……コドモっぽい直江も、オレ、好きだから」

 聞き取れるか聞き取れないかというくらい小さな声で早口に呟いて―――今度こそ扉を閉めた。

 しばし目を丸くしてその言葉を反芻していた男は、やがて唇に微笑みを刻む。

「……ますます手放せなくなりますよ、高耶さん―――」

 微笑みは、当の青年が見たらその場でへたりこんでしまうであろうと思われるほど、愛しげで幸せそうだった―――。




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503の香水話、「baby,baby!」バージョンでした。高耶さんお誕生日目前になって、ようやく。
直江さんの匂いと、またたびに酔う猫のようにそれに酔っているクロネコ高耶さんです。そして明ちゃんは小リスだそうです。う〜んそれとも、高耶さんによく似た黒い仔猫なのかしら?

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(image by KAI)