baby,baby!―――パパの誕生日
日当たりのいい南向きに建った白いマンションの一号棟、604号室には、出来上がって一年に満たない新しい家族が住んでいる。
家長は三十代の前半に入ったばかりの男で、勤め先の精密機械メーカーでは、去年から課長に昇進している。まだ新しい課であるとはいえ、異例の速さの出世と言えるだろう。
彼自身の人となりはといえば、もっとぎらついたオーラを纏っていれば芸能人に見紛う美丈夫である。尤も最愛の家族とともに休日の公園で遊ぶさまは、普通の父親に輪をかけた子煩悩ぶりなのだが。
その男の伴侶であり、一家の主夫として家事をこなしているのは、男よりも十一歳年下の青年である。目下のところは専業主夫だが、近い将来に大学の聴講生になる予定でもある。
彼は伴侶であるところの家長とは系統の違う黒い髪と瞳を持つ。複雑な生い立ちにもかかわらず、その涼しげな切れ長の瞳は澄んだ光を失わない。伴侶とは至極仲が良く、家族で街中を散歩している時などは、周りの人間があてられてしまうほど幸せそうな空気を振り撒く彼だった。
そして、三人家族の最後の一人は、二人の父親に溺愛されている幼い娘である。一歳と三ヶ月になる彼女は、父親である青年にそっくりな黒い髪と瞳をし、二人の父親にこの上なく懐いている。
早くもしっかりとした足取りで歩き出している彼女の専らの日課は、父親を引っ張って公園へ連れてゆき、くたくたになるまで走り回って遊ぶことである。休日ともなれば、普段は仕事に出ていていない家長がソファでくつろいでいるところに纏わりついて、背中によじ登る。相手も嫌がりもせずにされるままになり、肩まで登りきると肩車をして遊んでやるので、子どもの父親であるところの青年は、娘がはしゃぎすぎて天井に頭をぶつけないかとハラハラし通しである。
そんな仲良しの三人家族は、一緒に暮らすようになって初めてのゴールデンウィークも、遠出はせずに近場で家族団欒の日々を過ごしていた。
連休も中日の、今日は五月三日である。ありがたい憲法記念日という意味合いだけでなく、この日は一家にとって重要な記念日だった。
昨日は元気一杯の娘にせがまれるままに公園で遊び倒した男は、今朝はまだベッドの住人だ。眠りが覚める前のまどろみの中、普段の癖で傍らに眠る伴侶の姿を探して腕を伸ばすと、彼は小さな手を見つけた。
寝ぼけながら身を反転させてそちらへ向きを変え、小さな手の持ち主を引っ張り寄せて懐に収めると、男はもう一度眠りへ落ちてゆこうと瞼を下ろした。
だが、腕の中に納まった小さな体は、おとなしくなされるままにはならなかった。
「なーっ!」
小さな手のひらで男の顎をぺたぺた叩いて、その小さな生きものは男の目を覚まさせようと試みる。
男はそうされてようやく、ゆっくりと瞼を上げた。
何度か瞬きを繰り返し、彼は腕の中に居る人をまじまじと見つめて、しばし沈黙する。
腕の中では、小さな生き物が不思議そうに男を見つめ返す。
「……いつの間に、こんなに小さくなっちゃったんですか……高耶さん」
男は幼い子どもを不憫そうに見つめ、呟いた。
「……これじゃあ、おはようのキスもできない……」
小さくため息をつくと、額をくっつけて、彼は子どもの小さな唇を自分の唇へと導いた。
―――唇がもう少しで触れ合うかというところで、急に男の前から子どもの顔が消えた。
代わりに現れたのは、今度こそ大人の青年の顔。
「ばぁか。何寝ぼけてんだよ」
青年は男の腕から娘を救い出して、代わりに自分を滑り込ませた。
ぷちゅ、と唇を触れ合わせると、ぺたぺたと男の頬を叩いてやる。そうされてようやく、男は完全に目を覚ました。
「……高耶さん?」
男は自分の目の前でくすくすと笑っている伴侶と、傍らに座り込んで自分を覗き込んでいる幼い娘とを交互に見て、自分が寝ぼけて二人を見間違えたことに気づいた。
「目ぇ覚めたか?なかなか起きてこないから明を迎えにやったのに、何でオレと間違えてんだかな……」
青年は楽しそうに笑いながら、ぱふっと伴侶の胸板に頬をくっつけた。
「あぁ、すみません。道理でおかしいと思った……。明ちゃんだったんですね」
胸に懐いてくる伴侶を愛しげに抱きしめて背を撫でながら、男は傍らにぺたんと座り込んで自分を覗き込んでいる愛娘へも腕を伸ばす。幼い娘は意図を察して男の胸へと飛び込んでいった。
休日をいいことにそうやってしばらくじゃれていた三人だが、やがて最初に身を離したのは主夫の青年だった。
「さ、そろそろ起きろよ。朝メシにしようぜ」
身を起こした男に遊んでもらおうと纏わりつく幼い娘を抱き取り、主夫青年は上機嫌で寝室を出てゆくのだった。
ライトグレーのシャツにゆったりしたコットンのスラックスというラフな休日スタイルに着替えた男がリビングへやってくると、
パァン!
と音がして、彼の頭の上に細長い紙テープが何本も降り注いだ。
「?た……」
「誕生日おめでとう、直江!」
頭からずらずらと垂れ下がった紙テープを掻き分けて視界を確保すると、そこにはニコニコと楽しそうな表情でクラッカーを手にした伴侶がいた。
ふと傍らの食卓へ目をやれば、そこには朝食のメニューの他に、ろうそくをたてたケーキが鎮座している。白いホイップクリームで綺麗に飾りつけされて真っ赤な苺をたくさん散らしたそれは、彼の為に伴侶が心を込めて手作りしてくれたものであるらしい。
「高耶さん……」
視線を伴侶へ戻すと、エプロン姿の青年は少し赤くなって頷いた。
「前にリクエストしてくれたやつ。店のみたいな綺麗にはいかなかったけどさ。
あ、苺は明が載せたんだぞ」
「ぱぁぱ!」
食卓の向こうに据えられたソファに立ち上がって、愛娘は男を『パパ』と呼んだ。
「パパ……?」
聞きなれない言葉に思わず青年を見やると、相手はくすりと笑って、
「オレはとーさんで、直江はパパ。どっちも明にとっては父親だもんな」
と小首を傾げた。
「だからさ、今日は明のパパの誕生日なんだ。ほんとに、おめでとう」
男はソファから身を乗り出して自分を呼ぶ愛娘と、空になったクラッカーを手に自分を見つめている伴侶とを交互に見て、しばらく黙ったのち、ふわりと微笑んだ。
それは、伴侶となって一年弱の青年が初めて見た、まるで今にも泣き出しそうな微笑みだった。
「ありがとう」
複雑な環境に生まれ育ち、家族というものに嫌気以外の何物も抱かなかった自分だが、僅か一年前に出会ったこの親子と共に暮らすようになって、どんなにか幸せになったことか。
心から愛しいと思う者たちに囲まれて、自らの生まれた日を祝ってもらうことの喜びを、彼はこの短い一言で精一杯に表現したのだった―――。
fin.
5/4Up
「baby,baby!」パパの誕生日編です。
一日遅れになってしまいましたが、書いておきたかったので……。
最終巻を読んだ後にもかかわらず、それなりに甘い話が書けました。
どうしてだろう?
私が直江さんファンだからなのかもしれません。彼は生きているから。長い生に挫けず立ち向かおうとしているから。
だから、こちらも強くあれるのかもしれません。
彼の内側でまどろんでいる高耶さんがいる限り、彼は歩いてゆけるのでしょう。
長い時間をかければ、この世にありながら魂を浄化できるかもしれない。
望みを持つことは、儚いようでいて、とても強い心ではじめて為せることだと思います。
内側から挫けてしまったらお終いです。思い続けることでようやく繋がってゆける。
その場しのぎの嘘でも、突き通せばそれが血肉になってゆく。真になる。
自分を騙したことを後悔するよりも、それが現在へ繋がったことを認めようと、思う此の頃です。
サーバ広告