「―――」
ふと、何かが勘に引っかかり、高耶は視線を変えた。
ときどき気晴らしに出てくる小ぢんまりしたカフェの一角。
春めいて浮き足立つ通りに面したガラスのすぐ傍に席を取って、アメリカンブラックを片手に新聞を広げていたときのことだった。
ガラスの向こう、街の雑踏の人々は何ら変わらず流れてゆくのに、一体何に気を取られたのだろう。
裏世界のエージェントとしての自分の勘を刺激したもの。
理由はすぐにわかった。
同業者―――というより、同じ世界に属する人間―――がいる。何者かに狙いを定めて動くさまが、自分の視界に刺激を残したのである。
その狙いの鉾先を探ろうと視線を転じて―――驚いた。
どんな場所にいてさえ、たった一人だけカラーでこの目に飛び込んでくる人が、そこにいた。
ゆったりと、しかし颯爽と雑踏を泳いでゆく、他よりも抜きん出た長身。その背に、例の『狩る者』の照準がぴたりと合わせられている。
「―――」
高耶の瞳が鋭くなり、彼は次の瞬間には席を立っていた。
ごく自然な足取りでカウンターへ行き、勘定を済ませると、彼は通りへ出て人の波に加わった。
そして、何気なく相手を見つけた風にそちらへ駆け寄る。
「おーい」
ぽん、と背を叩く頃には、相手もとっくにこちらへ気づいている。
微笑みながら振り向いて、
「奇遇ですね。た―――」
「宝でいいよ。義明さん……でいいよな?」
どちらの名前で呼んだものかと語尾を濁した直江の後を引き取って、高耶はそんな風に笑った。
よく考えたらその名で呼び合うのは初めてかもしれない。何だか楽しくて、高耶の笑みはなかなか消えなかった。
「ええ。ところでここで何をしていたんですか?」
こちらも笑って頷き、直江が問う。
「そこでコーヒー飲んでたらお前が見えたから、店から出てきたんだよ。
なぁ、どっか行こ?」
ぐい、と首に腕を回して引き寄せる。スナイパーの照準から撹乱してやるつもりなのだ。
高耶は微かに唇を吊り上げた。
「ずいぶん乱暴に引っぱるんですね」
苦笑気味に笑う直江の方もそれに気づいたようで、瞳の奥が鋭い。
「今日はあなたが守ってくれるんですか?」
小さく囁かれた言葉に、
「おう。任せろ。表に波風立てずに済ませられるよう頑張ってみるぜ」
にっと笑って高耶はぐいぐいと首を引き寄せた。
傍目には仲のいい友達同士が戯れているようにしか見えない行動だが、実のところそのランダムな動きは狙撃銃を惑わせるに充分足りるだけの計算下で行われている。
「で、どこ行こっか」
相手で遊びながら、高耶は楽しそうに笑っている。遠くで苦虫を噛み潰しているであろう存在を思って、彼の笑みには意地の悪い色が浮かんでいた。
「お見事」
隣の直江も同じ笑みで応える。
二人はしばらくそうして歩いてゆく。高耶が次に呟いた言葉はこうだった。
「お前、背がでけぇから人込みの中だと頭だけ出てるんだよな」
何気ない言葉のようでいて、本当は警告と確認。雑踏から抜け出た瞬間が勝負なのだと目で言い合う。
敵を引きずり出して伸してやるのも、それからの話だ。
そのことを瞳で確認し合って、二人は右へ左へ体を揺らしながら、ふざけ合うような様子で歩いていった。
あと10m、5m、2m、……
駅への入り口を過ぎると、ぐっと人が減る。人の流れはここで崩れ、あるいは横道の商店街へ、あるいは地下鉄への降り口へと散ってゆくのだ。
待ち構えていたように実弾が飛んできた。
既に身を翻し、二人はわき道へ飛び込んでいる。そこへ間髪入れずに新手が現れた。
鈍く光る刃が狙ってくる。相手は二人。本職の殺し屋ではあるようだが、一流とは呼べない様子である。
素早く目配せして直江は壁際へ下がり、高耶へ相手を譲った。
「さんきゅ」
待ってましたとばかりに神速の脚で敵へ肉薄し、高耶は鞘に入れたままの愛刀を振るう。
鞘も刃も黒金剛と呼ばれる特殊合金で作られているそれは、なまじな刃ではかすり傷一つ付けられない。その道に名を残してきた人間には、今目の前に居る二人を相手にするのに、鞘以上のものは必要なかった。
ストレス発散とばかりに縦横無尽の舞姿を披露しているカゲトラに、猟犬たちは半ばおちょくられているような格好である。
「―――」
自分を狙ってきた輩と楽しそうにやり合う恋人を面白そうに見物していた直江が、ふと瞳の奥を鋭くした。
高耶へ近づこうとする新たな手勢に気づいた彼は、身を翻して肉薄した。
胸ポケットから引き抜いた金属製のボールペンを武器にして刃を払う。ただの金属ではない。カゲトラの愛刀と同じ黒金剛で作られた特殊なペンである。暗器だ。
ペン先の反対側を引き抜くと細剃刀が仕込まれており、直江はそれを鞭のようにしならせて相手の刃を切り払った。飛んでゆく断片を素早く避けながら、気を取られた隙の相手の懐へ飛び込んで鳩尾に強烈な拳を叩き込む。
かなり鍛えられているであろう肉体を誇っていた相手だが、直江の拳は的確にその急所を捉えていた。殺しはしない程度に、しかし油断は一分もなく、直江は相手を地に沈めている。
「余所見してるとは余裕だな。―――らあッ」
そのやりとりに気を取られた隙を見逃さず、カゲトラは目の前の二人を峰打ちに沈めた。
「お見事」
ペンを胸に仕舞いなおした直江が軽く手を叩いたそのとき。
「直江っ……!」
何かに気づいた高耶の瞳が見開かれ、彼は相手の懐へ飛び込んだ。
同時に、鋭い銃声が響く。
自分の腕の中に飛び込んできた相手がびくり、と体を突っ張らせるのを、ずるずると膝をつくのを、直江は見開いた瞳に映していた。
撃たれた、と悟ったときには、彼の手には煙を吹く愛器があった。
その銃口の先にいるスナイパーを的確に撃ち抜いて。
引き金に掛かった指には恐ろしいほどの力が入っていて、小刻みに震えている。
極度の激情を宿した後の体は制御が利かない。
その呪縛を解いたのは、膝をついて直江の足にしがみついていた高耶の発した声だった。
「なおえ……」
「高耶さん!」
一瞬で正気に返った直江は、愛器を仕舞うのもそこそこに膝をつき、高耶を支えた。
「直江、怪我……ねーよな?」
額に脂汗を浮かせた状態でも、相手の意識はしっかりしていた。
眉をきつく寄せていながらもこちらを見上げて尋ねてくる。
「私は無傷です。あなたは、肩ですか。しっかり、しっかりしてください!」
直江は高耶の怪我を調べて顔色を変えた。
右肩から出血している。
自分の心臓が狙われた筈だがこちらには被害はない。ということはつまり、高耶の体の中にまだ弾が残っている可能性が高いということだ。
貫通していればまだしも、体に弾丸が残っているとなると危険である。
直江は一気に鋭くなった瞳のまま、素早くほどいたネクタイで高耶の傷口の手前を縛った。
「ッ……」
「少し我慢していてください」
さすがに顔を歪めた高耶だったが、直江の囁きに対しては気丈に頷いた。
そうして簡単な止血措置を施すと、直江は上着を脱いで高耶の肩を包み、その体を抱き上げた。
「……またお前は」
知り合いの医者のところへ彼を運び込むと、白衣を引っかけて飛び出してきた男が深いため息をついた。
「たまに顔を見せたと思ったら急患だ。今日はお前自身じゃないようだが」
愚痴を言いながらも、男は既に直江の抱いてきた負傷者へと意識を向けている。その眼差しは医者そのものだ。
「弾を取り出してくれ。右肩を背中からやられた」
余計な説明をしている暇はない、と直江は単刀直入に告げた。
今はまず、一刻も早い手当が必要だ。
「わかった。……事情は後で聞くからな」
男は医者の顔になって患者を覗き込み、手術室へ急いだ。
直江の腕の中で、高耶は意識をとばしている。
「……あぁ、大丈夫だ。骨のところで止まっていた。鍛えた筋肉のおかげだな。きちんとリハビリすればすぐに元通りになる」
「それならよかった。俺のせいでこんな怪我をしてしまったんだ。せめて回復が早ければ慰めになる。
しかし、自分が撃たれたほうがどれほどよかったか……」
「お前が撃たれたことのほうが多いだろうが。ったく、そのたびにいきなりここへ来やがって……お前と付き合ってるだけでこっちは老後の心配が無くなるぜ」
「すまんな。お前のところが一番信用できるから。腕も口もな」
「ほお。褒められると無碍にできない自分のサガが哀しいよ」
「確信犯と言え」
「ほんとにお前は最低野郎だぜ」
賑やかなやりとりを覚醒前のぼんやりとした意識の中で聞きながら、高耶はおかしくて笑っていた。
直江が誰かとこんな風に言い合うなんて。まるで同窓生がじゃれているようだ。
変な夢だな……
次に目を開けたとき、彼はしばらく自分が今どういう状況なのか気づけずに戸惑った。
もとは白かったのであろう天井は、年月を経て変色している。視線を横に転じると、自分の周りは壁よりは白に近いカーテンで仕切られていた。
体が重い。
重いだけではなくて、動かないという状態に近い。これは何だ。
すぐに気がついた。自分は麻酔を打たれて眠っていたのだと。
気づいて、思い出した。
直江と一緒にいて撃たれたのだ。
ここはおそらく病院なのだろう。よくよく意識すると、薬品特有の鋭い匂いもしている。
だが、一体どこの病院に自分はいるのだろう。
直江に抱かれてタクシーに乗り込んだところまでは覚えているのだが、その後は車の揺れが傷に響いて意識を失ってしまったらしい。
そう、直江はどこにいるのだろう?
心の中で呟いたとき、誰かがカーテンを引いた。
「高耶さん……?」
直江だった。
こちらは身動きもままならない状態だったのに、自分が目覚めた気配を感じ取ったらしい。
「意識が戻ったんですね。よかった。まだ体は自由にならないと思いますが、すぐに抜けますから。安心してください」
目が合い、直江は高耶の枕元に近づいて膝を折った。
目の高さを同じくらいにして、彼は手を伸ばすと指先で高耶の髪をそっと梳いた。
高耶は麻酔のために反応を返すことができずにただ瞬く。
「ごめんなさい。俺のせいであなたはこんなひどい怪我をしてしまった」
直江は痛ましく睫毛を伏せた。
自分のせいで高耶が傷ついたということが耐えられなくて、彼は自らをひどく責めている。
そのことに気づいて高耶は瞳を鋭くした。
じっと直江を睨み付けて、言葉にこそならないながら、彼は直江の言葉を激しく否定している。
直江が自らを責める理由なんてどこにもない。
自分が好きで庇ったのに、それを悔やむはずもないだろう?
お前がそんなだと、折角お前を守れたオレまで哀しくなる。
オレが聞きたい言葉はそんなものじゃない。
「俺を助けてくれてありがとう……」
ようやく気づいた直江がそう囁いて微笑むと、高耶は笑った。
その瞳からそっとこぼれた涙は嬉しさの表れ。
「ありがとう……泣かないで、高耶さん」
直江の唇がそれを吸い取ってゆく。
吸うそばからこぼれてゆくそれを、止めようともしないで高耶は安堵の吐息をはいた。
やがてその吐息も相手に吸い込まれる。
自由にならない舌で、それでも懸命に応えた。
そして長いキスが終わる頃には体の自由も戻っていた。
「―――もういいかな」
こほん、という咳払いとともに聞こえてきた他人の声に、高耶はびくっと顔を向けた。
直江が入ってきたときから半開きになっている仕切りカーテンに手を掛けて、白衣の男が困ったようにこちらを見ている。
お取り込み中済まん、というような眼差しと、半ば呆れたような表情が混在していた。
「いきなり声を掛けるな。何か用か?」
高耶の髪を指先で撫でながら、直江がため息をつく。
言葉尻は不機嫌だが、相手を突き放す冷たさも鋭さもそこにはなくて、高耶は少し驚いた。
「用事が無ければ誰が邪魔するか。……尤も、患者の順調な回復のためにはそうした方が良さそうな気もするがな」
ちらり、とこちらを見てため息をつく相手の様子も随分と気安い。
直江とは旧知の間柄のようだ。
「―――誰?」
白衣と聴診器という出で立ちから、男が医者であることは見て取れたが、高耶にとっては初対面の人間である。
直江を見上げて問うと、
「あぁ、ここの医者ですよ。あなたの手術も彼がやりました。腕は確かですから安心してください」
「そうか。―――ありがとう。ご迷惑をお掛けしました」
優しい微笑みと共に与えられた答えを瞬時に整理し、高耶は男へ視線を向けると礼の言葉を紡いだ。
男はそのさっぱりとした態度に好感を持ったらしい。
ひょいと肩をすくめて笑い、直江の方に顎をしゃくった。
「どういたしまして。この男が突然来るときはいつもこんなだからね。慣れたもんさ」
半ばからかうように直江を見やって言う彼に、対する男は眉を吊り上げる。
「おい、余計なことを言うんじゃない。―――それから、この人に色目を使うな」
低い脅しはただの冗談ではなく、本気の色をにじませている。
「何言ってやがる。事実だろうが。それと、俺はお前の領域に手を出すほど馬鹿じゃねえよ」
そもそも俺には愛妻と愛娘がいるんだ、と惚気る様子がおかしくて、高耶は思わずくすりと笑ってしまった。
「おい、ガキみたいな言い合いしてるから笑われちまったぞ」
医者が大げさにため息をつくと、直江も疲れたように頷いた。
くすくすと笑い続けている高耶に視線を戻して、
「変な男ですみません。古い付き合いなんです。
ここはこの男の個人病院で、表向きはただの民家ということになっていますから、安心していて大丈夫ですよ」
ため息の次は落ち着かせるように微笑む直江である。
「へえ?」
つまり普通の病院ではないということだ。
大体のところは察したものの、高耶はもの問いたげな声を発した。
自分がどういう場所にいるのか把握することは怠るべき事柄ではない。
「正式なライセンスは無いからな。うちはこの男みたいな事情持ちの患者ばかりを相手にしているんだよ」
医者は大きく頷いて相手の言いたいことに答えた。
「……なるほど、直江は怪我したらここでお世話になるんですね」
これまで何度も目の前でひどい怪我をするところを見たが、それをどうやって治療しているのか高耶にはわからなかった。
最初の事件で直江は脇腹を細刀で貫かれるという重傷を負いながら姿を消したが、程なくして再び噂を聞いた。
二年半ほど前にも、自分を庇って直江は銃で撃たれた。あの時もそのまま姿を消したけれどぴんぴんして戻ってきた。
他にもきっと色々な場面で傷を負うことがあったはずだが、一匹狼の彼がどういうルートで医者にかかっているのかは掴めなかった。
直江はそんなとき、この医者のところへ転がり込んでいたらしい。
「この男は、たまに姿を現したと思ったら貫通創だの銃創だのをこしらえて、よくもここまでたどり着けたというような深手を突きつけるんだよ。何度寿命を縮めたことか」
首を捻る様子はふざける様な言葉尻とは裏腹に真剣だった。
「余計なことを言うなと言っただろう。この人をおどかすと怒るぞ」
苦い顔でそんな男に釘を刺す直江は、視線を高耶に戻して驚いた。
「高耶さん !? 」
漆黒の瞳が濡れていた。
ゆっくりと滑り落ちる涙に直江は言葉をなくす。
「……よかった……」
ようやく呟かれた小さな声に、彼は呪縛を解かれた。
「高耶さん……?」
そっと握った手が、震えている。
「直江が助かって、よかった……」
高耶は切なくすらあるほど優しい声で、囁いた。
自分の知らない怪我をしたときも、
自分を庇って負った傷も、
直江を奪いはしなかった。
「お前が死んだりしなくて本当によかった……」
涙が止まらないのは安堵のせいだ。
見つめる眼差しの優しさのせいだ。
そっと降って来る唇の温かさのせいだ……。
気を利かせて立ち去ろうとする医者の背中に高耶は声を掛ける。
直江を助けてくれてありがとう。
「俺はあなたの知らないところで死んだりしませんから。絶対に」
高耶の涙がおさまると、直江は泣きたくなるほど優しい微笑みを浮かべて相手の額に唇をつけた。
「あなたも、俺の知らないところで逝かせたりしない。いつでも背中にいる」
「だから怖がらないで。あなたが竦んでいても俺が手を伸ばす。転びそうになったらそれよりも先に抱きしめる」
「もしも後ろに俺がいるのか不安になったら、振り返って。怖いならここへ走っておいで。いつでもここにいるから。
抱きしめてキスして触れ合って痕をつけて、
俺のすべてをあなたにあげるから。
だから今は、ゆっくり眠ってお休みなさい―――」
軽い掛け布団をそっと整え直してやり、子どもを寝かしつける母親のように髪を撫でてやると、高耶はゆっくりと睡魔に意識を明け渡していった。
眠りに落ちる前の夢うつつの中で、彼は小さく呟く。
「次に目覚めても、オレは直江のいる世界に戻ってこれるよな?」
もちろん。俺がずっとここであなたを守っていますよ。
直江は枕元に肘をついて寝顔を見守りながら微笑む。
すると、眠りに落ちかかっていたと思った彼が、瞼を上げてこちらを見上げてきた。
「―――手……繋いでてくれる……?」
微かに頬を染めての願いは、即座に叶えられた。
羽が触れるような優しいキスというおまけつきで。
fin.
03/03/22
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