「早くも梅雨入りかな……」 重く立ちこめた雲を窓越しに見上げて、高耶が呟いた。 「せっかくの休日だというのに、残念ですね」 リビングにいた直江が側へ寄ってきて同じように上を見上げると、高耶は顔を戻して笑った。 「そんなつまらなそうな顔すんなよ。家の中にいたって休日は休日だろ」 彼にだけわかる直江の憮然とした表情がおかしかったのである。まるで楽しみにしていた散歩が中止になった飼い犬のようなそれ。 直江は眉の辺りだけでその不興を表しながら、 「家にいたって天気がこれではつまらないでしょう」 ため息に似た呟きを落とした。 しかし、 「そうでもないと思うけど?」 にや、と意味ありげな笑みを浮かべて、高耶は相手の袖を引く。 何かを思いつき、それを相手にはめるのを楽しむかのような表情に、直江は軽く眉を寄せた。 「どういう意味なんですか」 「ふふ。―――来いよ」 高耶は至極楽しそうに言っていざなう。 どこへ連れてゆかれるのかと首を傾げた直江は、辿り着いた先に軽く目を見張った。 「……なんで真っ昼間から風呂場なんですか」 こんなじめじめした天気の日にわざわざ風呂へとは、どういうつもりなのか。 意図が読めない展開に戸惑う直江だったが、相手の次の台詞にはさらに驚かされることになる。 高耶はあっけらかんとした物言いでこんなことを言い出したのである。 「まぁ脱げよ」 「―――は?」 まさかお誘いなのか、と半ば驚愕して反応できずにいるうちにシャツを剥ぎ取られた直江である。 「下はなぁ……脱がすのもどうかと思うけど、かといってこのままはなぁ」 黒のランニング姿になった男を前に、高耶は次の問題を考えている。 「ちょっ……どうしたんですかいきなり」 「よし!下は着替えろ。ほら、これ」 訳が分からず戸惑ううちに男は突き出されたスエットに着替えさせられた。 「よし。これでいい」 高耶は一方的に楽しんでいる。黒のランニングとスエットという簡単な格好になった男を風呂場に引っ張り込んで、彼はにやりと笑った。 「一体何をしようというんです?」 「ふふふ。掃除だ、掃除!」 「は?なんでまた、いきなり掃除なんですか?」 思ってもみない答えに男は素っ頓狂な声を上げた。 「考えてもみろ。こんなじめじめした日に洗濯物が干せるか?家中のドアを開け放って掃除機掛け雑巾掛けができるか?クローゼットをひっくり返して衣替えができるか?できないだろ。 だから、風呂磨き!」 「風呂磨き……」 「すっきりさっぱりぴかぴかになった風呂でのんびりバスタイムだ。そのために磨くんだ。いいな!」 「はい、高耶さん……」 少し疲れた声音ながら、直江は従った。
きゅっきゅっ。 きゅっ。 むしむしした天気のもとでさらにむしむしの風呂場にこもった男二人は、黙々と浴槽を磨いていた。 白い陶器の浴槽はまめに磨いている高耶をもってしても段々くすんでくる。クリーム色のきれいな面を復元させるために二人は一心に手を動かした。 壁の上の方に設けられた湿気取りの窓は、半開きにされて外の雨音を伝えている。しとしとざあざあというその音をBGMに、二人はきゅっきゅっという音を立て続けた。 ―――そして。 いつの間にか昼になり、しゃがみ込んだ脚が痛みをおぼえる頃、高耶は額の汗を拭いながら仁王立ちになって高らかに宣言した。 「おしっ!完璧でつるつるで最高に快適な風呂場計画完了!」 「……なんとも妙なネーミングですね」 とっても元気に伸びをしている彼に、こちらはため息交じりの男が相槌にならない相槌を打った。 日本人離れした体格のよさを誇るこの男が長時間体を縮こめて雑巾作業に勤しんでいたのだから、疲労の度合いも大きいのである。 彼が洗い場に立ち上がって節々を伸ばしていると、浴槽から出てきた高耶が笑いながらその背を叩いてきた。 「脚が長いと色々大変だな。よっ色男」 ひたすら楽しそうにからかってくる彼に、男は一瞬反論しようとして寸でのところで方向転換した。何かを思いついた様子で、ふと唇を引く。 空恐ろしいほどにっこりと笑って、彼はこう切り返した。 「そうですね。とっても大変です。こう体が大きいと衣類のアイロンがけも洗濯も手間が増えますしね。いつもご苦労様です、奥さん」 鉄壁の笑顔でそう迫られて、『奥さん』は後ずさりした。かあっと赤くなって、 「誰が奥さんだ、誰が!」 「立派に奥さんですとも。休日はこうして風呂場まで磨いてくださるし、あぁ私は本当にいい人をお嫁にしたものだ……」 とろけるほど幸せそうな眼差しになってわざとらしく首を振る男の様子に、高耶はとうとう白旗を掲げた。そのままずるっとへたりこんでしまい、にやりと笑む男がしゃがんで覗き込んできてもただ低く呻くよりほかにない状態である。 見事に切り返されてしまった彼なのだった。 直江はようやく満足げに微笑み、表情を普段に戻す。 「はい、掃除はおしまい。お疲れさまでしたね、高耶さん」 「……おう、お疲れ。オレもお前も色んな意味でお疲れ……」 あぁぁ、と肩を落とした高耶に、いつもの優しい瞳に戻った直江がぱふぱふと頭を撫でてやった。
やがて、直江の大きな手のひらで髪を撫でられ続けて気を取り直した高耶は、立ち上がって浴槽に近づき、その磨き上げられたクリーム色にうっとりしながら蛇口の栓を捻った。 熱い湯がざあっと音をたてて流れ出し、つるつるぴかぴかの浴槽に溜まってゆく。 「バスタイムですか」 こちらも立ち上がった直江が背後から近づいて、高耶の肩越しに中を見やる。 「―――入るか」 ふと、張られてゆく湯を見つめながら高耶が呟いた。 「え、まだ溜まりきっていま―――」 ばしゃん、と大きな水音が上がる。 ―――目を見開いた男の先で、高耶は着衣のまま浴槽にダイブしていた。 「た、高耶さん !? 」 足を滑らせて落っこちでもしたのかと慌てて駆け寄り、浴槽の縁に両手を掛けた直江は、 「お前も入れよ。ほらほら」 ぐい、と中から引っぱられ、自ら身をかがめた際の勢いと相まって呆気なく引き込まれることになった。 ばしゃん、と先ほどよりもさらに大きな水音が上がり、 「……たかやさん……」 浴槽には、すっかり濡れてしまった男がけらけら笑って湯をかけてくる青年に苦笑するの図が展開されたのだった。 「お湯が汚れますよ、服を着たまま入ったりしたら」 言う男の前髪が一筋はらりと額に落ちかかる。湯をかけられたせいで整髪が崩れたのである。水も滴るいい男とはよく言ったものだ、と思いながら高耶は手を伸ばした。 落ちた前髪を後ろへ撫で上げてやりながら、 「なら脱ぎゃいい。どうせこれからバスタイムだ」 にっと見上げてきた彼に、直江は苦笑した。彼は自分がどんなに危ういことを口にしているのかわかっているのだろうか、と。 たぶんわかっているのだろう。わかっていて面白がっている。そこが彼の可愛いところでもあるのだけれど。 「今日は随分と遊んでくれますね。翻弄されっぱなしですよ、私は」 相手の着ているTシャツをすぽっと抜き取ってやりながら男が言うと、その上半身を覆う黒いランニングを嬉々として捲り上げていた相手が手を止めて笑った。 「これがオレたち流の、雨の日の過ごし方」 風呂はぴかぴか、 体には適度な運動、 そして、 熱い湯にたっぷり浸かってのバスタイムは、きっととても幸せ。 得意げに胸を張る彼を、相手は心底愛しげな笑顔になって抱きしめた―――。
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