Ten Thousand


 10000という数字。
 例えばそこに『円』をつけると―――



「―――なぁ、」
 うららかな春日和と形容すべき気持ちの良い午後に、外聞の悪くない理由でとある地方警察署に呼び出され、用事を済ませて外へ出てきた一人の青年がいる。
 彼は普段の飄々とした雰囲気にプラスした不思議な明るさを体に帯びて、すたすたと通りを歩いていった。

 その足がふと止まったのは、慣れた下町の一角で物乞いをする一人の老人の前であった。
「一万円、あんたなら何に使う?」
「ん?あぁ、お前さんか」
 自分の前に足を止めて屈みこんできた青年を見上げ、老人が見知った顔を見つけて表情をやわらげた。
「そうさなぁ、一万円ってのは曖昧な金額だな。競馬にでも行きゃ、あっという間に消えてなくなる金だ。あるいはどっかの慈善団体に寄付すれば、どっか遠いところの飢えた子どもたちを一ヶ月食わせてやれるかもしれねぇ。恋人に貢ぐにしちゃあ些かお粗末な値段だが、親元に中元でも送ってやるには充分足りる。
 ようはお前が何に使いたいと思うかだろうよ」
「そうか」
 青年は煙草の煙を吐き出すような仕草で息を吐いた。
 何ものにも執着しない、その日暮らしの風来坊として下町に生きている彼は、江戸っ子ではないが『宵越しの金は持たねぇ』主義である。その彼がひょんなことで手にした金の使い道に惑っているらしいのを、馴染みの老人は楽しげに見て、ふと自分の懐を探った。
「ところで、お前さん。一万円の使い道に困る前にちょっとこれを見てくれよ」
 しなびた腕が青年の前に伸ばされ、その枯れ枝のような指がつまんでいる紙切れを青年は覗き込む。
 それは郵便貯金の残高照会伝票で、現在の残高は1264,238円也となっていた。
「―――へぇ」
「若いうちは風任せでもいいが、わしらくらいの歳になるとこつこつ今後のために貯めるようになる。見習えとは言わねぇが、こういう地道な道もあるんだぜ」
 物乞いをしながら少しずつ金を貯めているという老人に、青年が軽く目を見張った。
 彼はははあ、と唸るような声を上げると、屈んでいた腰を元に戻して骨を鳴らし、
「なるほど、助言ありがとうな。じいさん。―――それじゃ」
と背を向け、肩越しに手を振った。
「生かすも殺すもお前さん次第だ。頑張れよ」
 老人は背中にそう声を掛けると、また元通りの蹲るような姿勢に戻って、岩のように静かになった。


「―――なぁ、おやっさん。あんたなら一万円、何に使う?」
 青年がいつもの通り、店で一番安い定食をかっ込みながらふと訊ねた質問に、水を運んできた食堂の主がふうんと鼻を鳴らした。
「一万円、ねぇ。ま、今なら俺は娘にちょっといいランドセルを買ってやる資金に加えるがね。もしくはかみさんと日帰りで出かけるか」
 気安い間柄の客とは親しく話しこむのが普通の大衆食堂である。主人は青年の向かいの椅子を引いて、たくましい腕をテーブルの上に突いた。
「娘さん、もうすぐ小学校か。早いなぁ」
 水を喉に流し込み、青年が呟く。
「おうよ。可愛い盛りだ。―――それはそうと、おめぇ、あの娘でも口説いてみたらどうだ?何つったっけ。そう、ミナちゃんだ。三丁目のシアター」
 主人は娘を語るときだけ顔をとろとろにしたが、すぐに話題を戻した。
「一万円で女を口説ける時代じゃねぇよ。あいつにはいっぱい固定客がついてるしな」
 だが、青年は肩をすくめてもう一口水を飲むと、席を立った。
「ご馳走さん。……まぁ、行くだけ行ってみるよ」
 レジの横にあるカウンターの上に硬貨を揃えて置くと、彼は皿を片づけて奥へ消えようとしている主人の背中に声を掛けた。
「固定客になる必要はねぇだろ。一夜の楽しみと思って気軽にアタックしてみるんだな。頑張れよ、若人」
「馬鹿言ってんじゃねーよ。一夜の相手ならいらねーって」
 にやりと親指を立てた主人に、青年はぺろりと舌を出してみせた。



「―――なぁ、ミナ。一万円で買えるものって何だと思う?」
 シアターの舞台裏では、役者たちが準備におおわらわであった。
 多くは控え室も大部屋だが、名の売れている役者は小さいながらも個室を与えられている。その一つへ、青年は慣れた様子で入っていった。
「あら、タカちゃん。しばらくご無沙汰だったじゃない。元気してた?」
 豊かな黒髪をアップスタイルに整えさせている最中だった目的の女性は、衣装係に髪を結い上げられているため顔を動かすことができなかったが、手鏡ごしに背後へと視線をやって青年に微笑みかけた。
「見てのとおり。で、話の続きだけど。前に欲しいって言ってた首飾り、幾らだっけ?」
「何言ってるのよ。あなたにせびるつもりなんかないわよ。ところでマイの今回の衣装見た?新しいパトロンが二つ返事で買ってくれたっていう大きなダイヤ!あれは億単位だわね」
 傍まで歩いていって、耳元で揺れている赤い石を弄びながら尋ねると、ミナは一笑に付して話題を変えてしまった。
 彼女たち舞台役者は忙しい。目まぐるしいのはスケジュールだけではなくて頭の中もそうなのである。一種の職業病と言えるかもしれない。くるくると変わる興味や話題の対象は、常人にはついて行くのがなかなか難しいスピードだった。
「へぇ、オレはマイに興味はないから知らねーな。―――じゃ、舞台頑張って」
 青年は石をはじくようにして、別れを告げた。
「―――タカちゃん」
 ゆっくりと戸口まで歩いていったその背中に、ふいにミナが声を掛けた。

「あのね、女は金では落ちないのよ。女を口説こうと思ったら愛がなくちゃ」
 思いがけず真面目な声音に、青年の足が一瞬動きを止める。

「―――ま、そうでなければ目の玉が飛び出るくらいの金を積むか。それで妥協してくれる女もいるでしょうね」
 最後に笑いながら付け加えた声は既にいつものミナのものであったが、青年はふと、この女の心の底を垣間見た気がした。



「結局、ろくな金の使い方がねーな。あーあ」
 青年は女のもとを後にすると、すぐ傍にある広場のベンチにどっかりと腰を下ろした。

 ――― 一万円という金がなぜ彼の手元にあるのかという事情は極めて単純な理由からである。
 半年ほど前に、この三丁目をぶらついていた彼は、このベンチの脇にくしゃくしゃになった紙切れを見つけ、ゴミ箱に持っていこうと拾ったところ、その独特の手触りに気づいたのだった。紙幣の偽者を作ろうとした場合、もっとも困難なのはあの細かな印刷技術ではなく、その独特の紙質なのだという話は誰でも知っていることである。
 律儀に警察署へ届け出たその紙幣が、落とし主不明につき、今日彼のものになったのだった。
 『宵越しの金は持たない』主義の彼がたまたま手にしたその金を、できればきれいさっぱり今日のうちに使ってしまいたいと思ったのはごく当然のことであるが、いざとなると有意義な使い道が思いつかないものである。

「女は愛で落ちるのよ、か……」
 背を一杯に伸ばして、青い空を見上げた彼は、ふと先ほどの女の言葉を呟いた。
 彼の黒い瞳はしかしその女を思い浮かべているのではない。
 網膜の裏に一人の男を思い描いたところで、青年はえいやっと立ち上がった。



「いらっしゃい。どんな花を作りましょう?」
「一万円分、抱えられないくらい大きな花束を―――」

 花屋に寄って、一枚の紙幣と引き換えに大きな花束を手に入れた彼は、女のもとでも自宅でもなく、ある古びたアパートの扉を叩いた。

「―――はい。おや、高耶さん」
 ややあってから開かれた扉の向こうには、貧乏だが心の優しい万年苦学生の、犬のような優しい色を浮かべる瞳がある。
「どうしたんです?大きな花を抱えて。女に持って行って、ふられでもしましたか?」
 戸口を通り抜けるのも精一杯という花束を見て、その瞳が丸くなる。

 その驚いた顔をさらに驚かせるように、青年は花束を突き出した。

「―――あの?」
 無理矢理持たされた巨大な花束に困惑して、男が首を傾げる。
「口説くときは愛がないといけないんだってさ。―――愛の表し方なんてわかんねーから、花にした」
 少し赤くなってがしがしと頭を掻く青年に、男は驚く。
「それは、つまり……?」
 うまい言葉を見つけられず瞬きを繰り返す男に、青年は向日葵のような笑顔を見せた。


「とりあえず、愛してるよ。直江」






 一万という数字で何ができるだろう。
 大きなことができる人もいる。
 地道な長い目をする人もいる。

 そして、小さなきっかけにする人も。


 そう―――恋はきっかけ。





参考:O.Henry “One Thousand Dollars”

(picture by 姥桜本舗)