「明にはちょっとでかいから、上だけな。下はいつものズボン穿かせてやろ」
お風呂の時間である。
青年は例のお揃いパジャマの一番小さな分を取り上げて、そう独りごちた。
人形用かと思うほど小さくて可愛らしいそれでも、半年の赤ん坊にはまだ大きい。上着の部分だけで膝下までかかりそうだ。
上着だけ着せようと決めて、彼はそれを脱衣所の籠の中に置いた。
その籠には既に二枚の大人用パジャマが入っている。青年と、男の分だ。
赤ん坊を一緒に入れる都合上、橘家のバスタイムは三人でということになっているのだった。
「高耶さん、明ちゃんのおむつどうしましょう?」
寝室の方から男の声がした。
彼はベビーベッドの上で赤ん坊の服を脱がせてやっているのである。
「ああ、ちょっと待ってろ。今行くから」
青年は言いながら、そちらへ向かった。
「あーぁっ」
赤ん坊は湯に浸かってご機嫌だ。
ぱしゃぱしゃと手を突っ込んでかき回し、自分を膝の上に乗せて支えている男に容赦なく浴びせかけるものだから、相手は茶色い髪もすっかり濡れて、水も滴るイイ男状態になっている。尤も、赤ん坊相手にそんな色気は通用しないのだが。
明は目の前にある男の広い胸をぺたぺたと小さな掌で叩いてその弾力を楽しんでいたりと、やりたい放題だった。
「明ちゃん……あなた、悪い女になりますよ」
嬉しそうに、けれど苦笑気味に男はそんなことを呟く。
すると、
「直江っ!ヘンな予言してんじゃねーよ。実現したらどうすんだ!」
洗い場で髪を泡だらけにしていた青年がくるりと振り向いて怒鳴りつけた。
可愛い娘がそんな風に成長するなんてとんでもない!と目を怒らせている。
その親ばかぶりにくすくす笑いながら、男は軽く頭を下げた。
「すみません。でも思いませんか?この子、絶対にすごくいい女になりますよ」
「させねーよ!!」
噛みつかんばかりの勢いで返す青年はキレかけの状態だ。
「そうですか」
男は笑って、赤ん坊の脇に手を入れて少し持ち上げた。
目の高さを合わせて、微笑みかける。
「ね、明ちゃん、なーが好きですよね?」
「あー」
赤ん坊はふるいつきたくなるような笑顔を満面に浮かべて手を伸ばし、男の顎に触った。
「ありがとうございます」
その体を揺すって声を上げさせながら、男は続けて尋ねる。
「では、たーは好き?」
洗い場の青年を向かせて問うと、
「たー!」
赤ん坊はこちらにも笑顔を向けた。青年が思わず微笑み返すと、さらにきゃっきゃっと声を上げて笑う。
その頬にすばやく盗むようにキスをして、男は小さな体を抱き寄せた。
「……ね、天性の小悪魔でしょう?すでに二人の男を虜にしているんですよ」
ふにゃあ、と首をすくめるのを抱きこみながら、男は悪戯な笑みを浮かべて青年を見た。
「……オレはいいんだよ。父親なんだから」
全く以って正論だとわかっているから、彼にはこう返すしかなかった。
そう言って、彼は頭からざざっと湯をかぶった。
「もう少し詰めろよ」
体についた泡を流してから、青年は浴槽に入ってきた。
「交代しましょう。明ちゃんをお願いします」
広いとは言えない風呂場だ。彼らは片方が洗い場にいるときはもう片方が赤ん坊と一緒に浴槽に浸かり、洗い終わると交代するというのを日課にしていた。
今もそうしようとして男は立ち上がりかけたが、それを青年が制した。
「いいから。もう少し詰めてくれれば入れるんだよ」
「え?でも狭いでしょうに。体を縮こめたままでは疲れが取れませんよ」
男は軽く目を見張ったが、青年はきかない。
男の向かい側に体を丸めて湯に沈めた。
「……とりあえず詰めますからもう少しこちらへ来なさい。それでは本当に、余計に疲れてしまう」
男は苦笑して身を後ろへ退いた。伸ばしていた膝を曲げ、スペースを作ると、青年は少しだけ脚を伸ばしてきた。
「もっと楽にしてください。どうしてそんなに小さくなるんですか」
膝に手を回して抱きしめるような格好の彼に、男は手を伸ばした。
赤ん坊を腹の上に移動して、自分は膝を折る。そうして空いたスペースに、青年の脚を伸ばさせると、
「……直江って」
ふいに相手は呟きをこぼした。
「なんですか?」
男が首を傾げると、
「いや、……いい体してるよなぁと思って」
相手は言うと鼻先まで湯に浸かってしまった。その瞳がとろんとしているのは湯にあたったのか、それとも照れたのか。
男の方はかなり驚いた。
「どうしたんですか突然」
今まで何度もこうして一緒に風呂に入ってきたのに、そんなことを青年が言ったのは初めてだ。
お互い、体つきなど見慣れているのに。何を突然言い出すのだろう。
「ごばばぼっ」
水面下で何やら返した青年だったが、奈何せん、男にそれが聞き取れるはずもない。
「ちょっと待ってください。聞こえません」
苦笑して男は相手の頭に触れた。
「……」
すると、相手はそのままごぼごぼと湯に沈んでしまった。額まで沈める。
「たかやさん !? 」
驚いたのは男である。赤ん坊を抱いていることも忘れていきなり大きく身を乗り出したものだから、明が抗議して大きな声を上げた。
「あー!!」
その大音声に青年が顔を上げた。
「めい !? どうした !? 」
「……すみません。私がいきなり動いたので驚かせてしまったようです」
何が起こったのかと必死の形相で湯から顔を上げてきた彼に、男が苦笑してそう説明すると、安心したためか相手の体から力が抜けて、くらりと上半身がバランスを失った。
「高耶さんっ」
男が咄嗟に片手でその肩をつかんで支える。
「っ、ごめん」
青年は一種過剰なまでに反応して、ぱっと体を後ろに退いた。
「いえ……」
男は右手に残った肌の感触に不可解な気分を味わっていた。
直に顔や手以外の肌に触れたのは、考えてみればこれが初めてだ。
意外に柔らかな、洗ったばかりですべすべした感触の肌だった。しっとりとして手触りのよい……
「俺は一体、どうしたい……?」
その感覚に眉を寄せて、男は微かに呟いていた。
風呂を済ませ、青年と赤ん坊におやすみを言って自分の寝室に入った男は、ベッドサイドに腰掛けて仕事上の書類に目を通していた。
軽く見ておくだけのつもりが、いつのまにか真剣にのめりこみ、彼は時間の経つのを忘れてペンを走らせている。
部屋に入って、二時間もたったころか。
ふと、遠慮気味に扉をノックする音に気づいた。
「高耶さん?」
顔を上げると、ドアが細めに開いてそこから青年の顔が覗いた。
「ごめん、邪魔した?」
ベッドに掛けて仕事用の眼鏡を着けている男とそのまわりに散乱した紙を見て、彼は状況を読んだらしい。
申し訳なさそうな顔をして、声を沈ませたが、それでも何か用事があるのか、いつもとは違って立ち去ろうとはしない。男はその様子に気づいて、眼鏡を外した。
書類を揃えて鞄に仕舞いながら、彼は青年に微笑みかけた。
「いらっしゃい。何かお話があるんでしょう?」
右手を伸ばして招くと、相手は一瞬躊躇うようにして、それから扉を開いて中へ入ってきた。
どこか動きがぎこちない。
背を向けて、開けたドアをきちんと閉め、彼はそのままで大きく一つ深呼吸した。
その後姿に首を傾げながら、男は相手が向き直るのを待っている。
やがて、青年は決心したように息を詰め、男に向き直った。
そのまま、挑むように相手を見つめる。
漆黒の珠のような瞳が、男の鳶色の瞳の奥に潜り込んで、男は息を忘れた。
その視線の意味が、わかってしまったから。
「……高耶さん」
「言うな」
青年はそのまま、ゆっくりと、しかしまっすぐに、相手の前まで歩いてきた。
両腕を伸ばして、男の肩の上に置く。
そのまま半身を乗り出して、間近で再び見つめなおした。
―――澄んだ鳶色の瞳。優しい色を浮かべて二人を見守るその双眸。
この瞳が好きだ。
―――何て綺麗な黒だろう。
一目見たときから、その輝きに瞠目していた。
涙を浮かべるときも、この世界に挑戦するように昂然と光るときも。どんなときも。
この瞳に見惚れる。
「……欲しいものがあるんだ。ずっと前から」
彼はその瞳で痛いほどにこちらを見つめながら、微かな声でそう言った。
「何でも、あなたが望むのなら、月でも」
男は真摯な瞳でそう返した。
「何でも……?」
青年の瞳が熱い奔流に燃えた。
「本気でそう言うのか」
「いつだって本気ですよ。嘘も遠慮もいらない。本音で接したいから」
男が初めて、見返す瞳に熱を灯した。
何が欲しいんですか……?
「明ちゃんは……?」
腕の中に死ぬほどきつく抱きしめて、男は裏腹にそんなことを尋ねた。
「よく……寝てるよ」
抱擁だけで、こぼれる息はやるせないほどに熱い。
青年は目を半ば閉じて、すがるように男の首に腕を回していた。
「そうですか……それで、本当にいいんですね……?」
その首筋に唇を触れて、一つだけ痕を残すと、男は最後の駄目押しとばかりに耳元に囁いた。
「なおえ……お前が欲しいよ……」
返った言葉は既にかすれて喉に絡んでいた。
「―――それにしても、直江、鈍すぎ!」
二週間もしたら完全に惚れてたのに、と、今の今まで気づいてくれなかった男を青年は詰る。
男は睨みつけてくる瞳をひどく愛しげに見つめ返し、その目じりに唇を落として喉の奥で笑った。
「その台詞はそっくりそのままお返ししますよ。私だって随分と耐えてきたんですから」
詰っているようでいて気だるげな甘さを含んだ会話は、立派なピロウトークと言えるだろう。
父親と保護者との時間を知ってか知らずしてか愚図ることなくすやすやと眠り続ける赤ん坊のお陰で、二人は邪魔が入ることもなく大切な時間を過ごすことができたのだった。
「耐えてた、って……そんなの、言ってくれればよかったのに。なんで黙ってたんだよ?」
むー、と眉を寄せて詰る青年に、男は苦い笑みを浮かべる。
「……怖かった、と言うのが一番の理由でしょうね」
「怖い?どういう意味?」
青年は不思議そうに瞬いて、向かい合っている恋人を見やった。
「こうして、」
相手はそんな青年を引き寄せて腕の中に閉じ込めると、首筋に唇をつけて、青年を小さく跳ねさせた。
「―――最初からこういうつもりであなたに声を掛けたのだと誤解されてしまうかもしれない……」
低い呟きに青年ははっと息をのむ。
「直江……」
「そんな風にあなたを見ていたわけじゃない。立場の弱さにつけこんで口説こうとしたなんて、思われたくなかったんです」
抱きしめる腕が強くなる。
その強さが男の苦悩と葛藤の深さを表しているようで、青年は胸を痛めた。
この男は優しいから、苦しむのだ。恋なんて本来エゴイズムの塊みたいなもののはずなのに、直江は自分の立場を利用するずるい男にはなれなくて、誠実に、まっすぐにこちらを見ていてくれた。 それがゆえに、敢えて自分を抑え続けたのだ。
「……あのさ」
青年はきつい腕の中で身動きして、相手の顔をまっすぐに見られるよう位置を変えた。
「オレは、もしそうでも、嬉しかったと思うぜ」
「……たか―――」
思いがけない言葉に驚いて、優しすぎて臆病な男は目を見開く。
「一目惚れ、ってことになるだろ。それって、嬉しくない?子連れの胡散臭い男に一目惚れするヤツなんて滅多にいないだろ。そんなオレに、それでも惚れてくれたんなら、それってものすごく嬉しいことだと思うんだけど」
青年はようやく恋人となった人の首に腕を回して、項のあたりに指を滑り込ませた。
柔らかい茶色の髪を楽しむように指先を遊ばせて、目は驚いた鳶色の瞳を見つめる。
「オレが嫌がると思ってた?いつだってどこだってお前にべったりくっついてたオレが、まさかお前に父親を求めてそうしてたんだとでも思ってたのか?
最初から好きだったよ。その時点では恋愛の対象としてじゃなかったかもしれないけど、信頼してたし、甘えてたし、大好きだったよ。
直江の優しい手を疑ったのは、人間を疑ったんじゃない。甘えてしまうのが迷惑だから躊躇っただけだ。本物の優しさだってわかってたから躊躇ったんだ。オレ一人ならともかく、赤ん坊を連れて厄介になるのはすごく大変なことだから」
「……ほんとうに」
どこかくすぐったそうに微笑みながら話す恋人をまじまじと見つめて、男は駄目押しをする。
「お互い回り道して、勿体無かったな。二ヶ月」
青年は大好きな瞳を見上げて頷く。
二人はしばらく顔を見合わせてから、やがて笑い合った。
「―――あ、明が泣いてる」
二ヶ月の互いの葛藤を伝え合って笑っていた二人を、しばらく経って、もう一人の家族が呼んだ。
心の中にぽっかりと空いていた穴を埋めてくれるたった一つのピースを、結び合わせたキューピッド。
機嫌の悪い泣き声は二人の仲良しトークから締め出されたのを詰ってのものかもしれない。
「私が行ってきます。どうしましょうか、ここへ連れてきましょうか?」
身動きがつらい青年に代わって身を起こした男は、クローゼットからバスローブを引っ張り出して羽織りながら問うた。
「オレ、シャワー浴びる。その間あやしててやって」
こちらも身を起こして節々をぽきぽき鳴らした青年はお揃いパジャマの上着を拾い上げて床に降り立った。
「私は明ちゃんのお叱りを一身に浴びなければならないんですか?随分と苦しい話ですね」
くすり、と笑いながら男は姿を消したが、赤ん坊を独占できることに関してはとても嬉しい話である。半ば鼻歌交じりにベビーベッドへと向かったその後姿を、大きなパジャマを頭からすとんと被った青年は笑いながら見送っていた。
「オレも、待ってるのが直江の子どもだったらあんな風にめろめろになるんだろな……」
その呟きは彼一人の耳にのみ、余韻を残す―――。
[高耶さんのお誕生日編 前中後編 完]