「……遅い」
バー仕込みの腕を発揮して作り上げた数種類の料理も、グラスもプレートも花までも準備万端に整えられたその食卓の隅に肘をついて、高耶が呟いた。
「遅いっ」
次いで、同じことをさらにトーンの上がった声で叫ぶ。
何度言っても、この家の主の不在はどうにもならないのだが。
今夜はクリスマスイブ。
この世で一番好きだといえる相手がいるならば、外すことはできない特別な日である。
少し前にそういう相手に出会ってぞっこん惚れ込んでいる高耶も例外ではなかった。
何と言っても、相手が筋金入りの奥手なのである。こちらがリードを取らねば進むものも進まない。
だからこうして押し掛けてくるのに……
……相手は今日もまだ帰宅していないのである。
「こんな日くらい、午前様はよしてほしいよなぁ……」
愛されている自信はあるが、相手の性格も熟知している高耶は、頬杖をついたまま、深いため息をついた。
彼の待ち人、直江は、とある大学の研究室に所属する助教授だった。幾つかの講義を受け持っているうえ、自分の研究に大変な意欲を投じている。それが時に、いや、常に、その他の何事よりも優先されてしまうのだ。本人は気づかないうちに、いつの間にか時間がすぎているというのだが。
そんなわけで、時々押し掛けてきても、大抵は待ちぼうけか先に寝てしまうことが多い高耶なのだった。そのために、恋人になって今が一番甘い時期のはずなのに、彼はあまり構ってもらえずに寂しい思いをすることが続いていた。
今夜こそは、と思ってここへ来たのに、やっぱり相手は研究の虫らしい。きっとまだあの埃っぽい部屋で書類に埋もれているのだろう。
高耶のため息は、止む気配もなかった。
やがて、時計の針が午後の10時を指したころに、彼はやおら立ち上がる。
「迎えに行こう。今夜こそはさらって帰る!」
行動力も積極性も恋人とは対照的な彼は、以前相手から貰ったお気に入りのコートを着込むと、勇んで出かけていった。
★ ☆ ★ ☆ ★
……さて、当の研究室では。
「もうこんな時間になってしまったか……」
いつの時代から使われているのか不明なほど古びた据え付けの掛け時計を見上げて、高耶の思い人は呟いていた。
ちょっと確認、と思って資料に目を通し始めたのは午後五時頃。
気づかぬうちに五時間が経過していたのだ。
山と積まれた本の間にかろうじて頭を覗かせているマグカップを手に取り、冷め切ったコーヒーを頓着せずに啜ると、彼は頭を資料に戻さずに立ち上がった。
そうして伸びをして、固まりきった体をほぐす。
最後に首を回してすっきりしてから、彼は荷物をまとめてコート掛けに手をのばした。
恋人が見立ててくれたそれを大事そうに着て、彼はいつになく早く研究室を後にする。
「駅前のケーキ屋はもう閉まってしまったかな……」
誰も聞く者とてない、静まり返った研究棟に、そんな呟きが落ちて消えた。
★ ☆ ★ ☆ ★
「……いねぇ」
真っ暗になった研究室の前で、高耶は苦く呟いた。
いつの間に帰ったのだろうか、どう見てもここには直江の気配がない。いくら彼でも、まさかこんな真っ暗な中で仕事を続けるほど酔狂ではないはずだ。
握ってくれる手を得られずに冷えてしまった指先へ、ふっと息を吹きかけながら、高耶はもう一度部屋の方を見た。
「……帰るか。直江ももう家に着いたかもしれないし」
指を暖かいコートのポケットへ突っ込んで、彼はきびすを返した。
★ ☆ ★ ☆ ★
「……高耶さん?いないんですか?」
ぎりぎりセーフでケーキを手に入れることのできた直江は、そのころ高耶のアパートの扉の前で呟いていた。
薄い扉ごしには何の気配も伝わらず、主の不在は明らかだ。
早々に眠ってしまったとも思えない。だいたい、寝ていても自分が呼んだら起きてきてくれるのだ。
それがないということは、彼はここにはいないということになる。
ならば、どこへ?
問うた瞬間、すぐに答えは出た。
直江は、ひらひらと白いものが舞い始めた道路を、急ぎ足に自宅へと向かっていった。
★ ☆ ★ ☆ ★
「……なんで帰ってねぇんだろ」
とって返した直江の家で、やはり不在の主を思って高耶はため息をついていた。
完全にすれ違っているらしい。とことんついてない、とうなだれてしまう。
「どこ行ったんだよ、直江……」
呟いて、ふと思いついたことがある。
もしかして、あの朴念仁でも今日がイブだということを思い出して、自分の家に来てくれたとか。
かもしれない。
大いにあり得る話だ。
こういう記念日が嫌いなわけではない男だ。
思い出してくれさえすれば、きっと行動するだろう。
高耶は、自分のアパートへと急いだ。
★ ☆ ★ ☆ ★
「やっぱり、いないんですね……」
自宅の前まで来て、明かりも気配もないことを外からでも悟って、直江はとことんついていない顔をした。
とりあえず。
メモでも残っていないかと鍵を開けて中へ入ると、彼は電気をつけた瞬間に目を見張った。
きっちりとセッティングされた食卓。
プレートからグラスから、小さな花まで飾られて、今すぐにでも温かな団らんを営めそうだ。
クリスマスのために、彼が整えてくれたのだろう。
「高耶さん……」
ろうそくに火を灯せば、どんなに温かな空間が広がるだろう。
しかし、そこには愛する人の姿がない。
どんな温かな空間があっても、彼がいなければ寒いだけなのだ。
「高耶さん、どこへ行ってしまったんですか……」
切なさが胸を刺す。
直江はぽっかりと明るい食卓にケーキの箱を置くと、寂しい声音で呟いた。
★ ☆ ★ ☆ ★
「直江……またすれ違ったんだな」
一方、自宅前では高耶が呟いている。
ドアノブに引っかけられていたミニリースに、相手の訪問を知った。クリスマス限定でケーキのおまけに付いてくるものだ。こんなものを自分の家のノブに残してゆく相手など、他に心当たりはない。
―――けれど、ここにはもう……いない。
今から相手の家へ走っても、またすれ違うかもしれない。
「どうしよう……」
どうしても、今夜は直江に会いたかった。
どうしても。
「会いたいよ、直江……」
小さく呟いて、彼はふと顔を上げた。
「―――あそこに行こう」
初めて声を交わした場所へ。
「来いよな、直江。待ってるから……」
白いものが散らつく空を見上げ、たった一人の人へ向けて呟いた。
あの場所でなら、会える気がした。
★ ☆ ★ ☆ ★
「……あそこへ行ってみよう」
直江もふと顔を上げて呟いた。
一番最初のあの場所へ。
また、あそこから始めよう。
きっと、あなたは来てくれるはず……
★ ☆ ★ ☆ ★
夜の街角。
灯りの落ちたビルの壁に凭れて紫煙を燻らせると、目の前に人が立った。
きらきら光る綺麗な黒の瞳が、こちらを見つめて笑っている。
「ちょっとつきあわねぇ?」
「―――いいですよ」
あのやりとりを再び交わして、二人はようやく出会う。
まるで合い言葉のようにそれを言った後で、彼らは人目もはばからずにきつく抱き合った。
「やっと会えた……もう、会えないかと思ったんだ」
黒髪の猫は愛する男の懐にもぐりこんでぴったりと張りついた。
すり寄せられる体をいたわるように優しく撫でながら、年上の恋人は囁く。
「すっかり冷えてしまって……本当にひどい夜でしたね」
「すれ違いばっかりで、寂しかった」
素直な弱音が、相手の気持ちをストレートに表していて、直江は胸が一杯になる。
「すみません。元はと言えば私が遅くなったせいですよね」
目を伏せて苦く呟くと、相手は首を振った。
上げた顔は、心からの笑顔を浮かべて恋人を見上げている。
「もういいよ。今ここにお前がいるんだから。……とにかく家帰ろ」
袖を引かれて、直江はこちらも微笑んだ。
「ええ、あなたの作ってくださった料理が待っていますね」
歩き出しながら、指を絡める。
「お前の買ったケーキもな」
ぴったりと握り合わせた手を、直江のコートの大きなポケットにしまいこんで、二人は温かな気持ちで帰途につく。
「持ったままあちこち歩いたので潰れてしまったかもしれませんよ」
仲の良い恋人そのままに、肩と顔を寄せて内緒話のような囁きを交わす。
悪戯っぽい笑みを浮かべあう。
「味は変わんねーだろ」
「まあね」
やがて直江のマンションに近づいたころ、あたりはすっかり白一色になっていた。
ホワイト・クリスマス。
出だしは散々だったけど、神様あなたも粋をなさる。
ひらひらふわふわ舞い落ちる白い雪片は、まるで幸せな恋人たちを祝福する花びらのよう。
そんな空へ向かって両手を広げながら、綺麗な黒い瞳が笑って問うた。
「家に帰ったらまず何しよう?どうしたい?」
直江は、背後からその体をふわりと抱きしめた。
「とりあえず今はあなたに飢えてます」
相手の瞳が嬉しそうにくるりと光った。
向き直って人差し指を突きつける。
「珍しくいい答えだな。よし、合格!」
「ありがとうございます」
恋人たちは、そうして、甘い夜にたどり着いた。
「明日は休暇を取りましたから、ゆっくりできますよ」
「オレも。何だ、ちゃんと通じ合ってるじゃん」
「そうですね」
「ん」
恋人に、キスを送る。
11歳年下の恋人より、愛をこめて。
グラスを持った手をそれぞれに差し出して、互いのグラスからシャンパンを乾すと、琥珀色の向こうに相手の笑顔が見えた―――