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LOVE * *




















from love.

―――愛から始まる。


そんな何かがあってもいい、と、今は思う。


02/09/01









「―――な、あんた」

人も疎らになった夜の街路で、照明の落ちたビルの壁に凭れて紫煙を燻らせていた男に、声をかけたものがあった。
無言でゆっくりと目を向けると、そこにいたのは二十代前半と思しき青年だった。
ワックスで固めていた前髪をぐしゃぐしゃと手櫛でかき回してほぐしたらしい、少しずつだけ束になって散っている黒髪が『オフ』らしくて面白い。

この時間にオフになるのだから、いずれ普通のサラリーマンではあるまい。身にまとう雰囲気も、そんな堅苦しさを感じさせるものではなかった。
陽気な青年なのだろう。
人と軽く戯れるのが得意な、そんな雰囲気がある。
そう……パリッとした白いシャツを来て、黒いタイを締めたギャルソンスタイルがよく似合いそうだ。

目の前の彼の服装はこれといって特徴のあるものではなかった。ゆったりしたジーンズに白いシャツ、上着は紺。
しなやかそうな手足と、きらきらした楽しそうな真っ黒の瞳が印象的だった。

その瞳が、何かを企むような悪戯な光を帯びて笑う。

「ちょっとつきあわねぇ?」



02/09/01








STEP 1

―――目覚めは、違和感と共に。

ゆっくり開いた視界に、映った天井は見慣れたはずのものではなかった。
同時に、この経験は決して珍しいことでもなかった。
目覚めてみて自宅でないベッドに寝ていたことなど、数え切れない。

しかし、なぜ自分がこんなところにいるのかを、覚えていないという経験は……掛け値なしに初めてだった。

心当たりがない。
昨夜自分は女を引っ掛けるような気分ではなかったはずだ。

そこまで考えて、直江はゆっくりと傍らに目をやった。
一体誰と共に寝ていたのか。

―――そうして、彼はたっぷり十秒は固まった。


そのうちに、相手が身じろぎしてゆっくりと目を開けた。
しばらくゆらゆらと彷徨っていたその視線は、やがて何かを思い出したようにクリアになって、隣へ向いた。
真っ黒な双眸が、固まったままの男を面白そうに見て、青年はにっこりと唇の両端を持ち上げる。

「おはよう。―――で、あんた名前は?」



一つ寝台の中で、にこにこと仔猫のように楽しそうな笑みを浮かべている青年と、かちこちに固まってしまったままの男は、出会ったのだった……



「おい。いつまで石像になってるつもりなんだよ。ほらほらこっち見て」

うんともすんとも言わずにただひたすた固まっている男に、青年がしびれを切らしたか身を起こしてその頬をぺたぺたと叩いた。
そうして、ようやく男は瞬きをした。
瞬いて……そして目を閉じた。
そのまま再びベッドに倒れこんで無理やり垂直落下的睡眠に身を任せようと試みた男だったが、それは叶わなかった。

「いきなり寝てんじゃねぇ!失礼な奴だな。オレは夢じゃねーんだってば」
青年がその両肩をつかんでがっくんがっくん揺さぶったのである。

さすがにそこまでされて現実逃避に走るのも、あまりに大人気ない。
ようやく直江は観念して、相手をまっすぐに見つめたのだった。


02/09/06







青年は、当然といえば当然だが、全くの裸体だった。そしてそれは直江自身についても言えることで。
全く以って喜劇的な話だが、ベッドの上で二人の男が向かい合っている、そんな図がここに展開されているのだった。

……俺の間抜け!

直江は相手の肌の上に点々と残る鬱血の痕を見るともなしに見ながら、内心で思いきり自らを罵倒していた。
どうやら自分はこの青年を抱いてしまったらしい。未成年でないだけまだましだ。
どんな経緯でこんなことになったのか記憶にないのが情けないが、とにかくこれは事実だ。
相手を気に入ってこうなったにしても、せめてそのときの感情くらい覚えていてもよさそうなものなのに。
全く以って間抜けな話だ。
自分の抱いた相手が女でなかったということもショックの原因の一つではあるが、どうしてそんな気になったのか、酔っていたわけでもないのに覚えていないなんて。
一人の人間として、最低のラインをすら、俺は守れなかったらしい……


「なんか、あんた頭の中で今ものすごい回ってるだろ」
自分を認めてそのまま黙り込んでしまった男のどんよりとした空気を見て取って、青年がからかうような声をかけた。
まるで人生に疲れて絶望しかかっているような男に対して、この青年は小悪魔にも似た悪戯な明るさを持っている。

「何もそんな深く考えることないのに。実際特に何かあってこうなったわけじゃねぇ。単に成り行きだ」

元気で、明るくて、そして面白そうな顔で笑う彼に、男は少しだけ目を奪われた。
そして、彼はようやく口を開いた。

「―――すみません」
第一声が謝罪だったのは、どう考えても青年の側の方に負担がかかっていたに違いないからだ。
一体何をどんな風にしたのかは全く記憶にないのだが、とにかく済まない気持ちになった。

「あんたが謝ることじゃねぇってば。大丈夫、強姦されたわけじゃねーからさ。合意の上ってやつだ」
青年は首を振って、腕を組んだ。
その台詞に再び肩を落とした直江だった。合意、なのに覚えていないとは。
ますます申し訳ない。

「すみません……俺はそのへんのこと、ちっとも覚えていなくて」
相手を怒らせてしまうかと思いながらそれでも嘘はつけなくてそう言うと、意外にも青年は納得しているように肯いた。
「だろうと思った。あんた昨日普通じゃなかったもんな」

直江は口を閉じた。
そうだ。昨夜は……


02/09/08











思い出した。
ビルの壁に凭れてやることもなくただ煙を吐き出していた自分に、この青年が声をかけてきたのだった。
仕事のことで鬱憤が溜まっていた自分を、彼は馴染みの店だと言って小さなバーに連れてゆき、そこで黙って酒につきあってくれた。
酒といっても一杯か二杯か、その程度のことだったが。
店を出て、彼は俺に何と言ったか?―――そう、
『家に帰るか?』
黙って首を振った俺に、
『オレも帰る気分じゃねーんだ。な、どっか泊まる?部屋代半分で済むぜ』

―――そうして、ここに入ったのだった。

寝るつもりなんてなかった。
ただ単に、一人きりの家へ帰る気になれなかっただけで、同じ部屋に誰かがいればそれでよかった。
だからこの部屋もシングル二つだ。
……けれど、バスから上がってきた青年はこちらのベッドに近づいてきて、座っている俺の髪に触れてきた。 きっと、俺はよほど人に飢えた目をしていたのだろう。彼は俺の髪を優しく撫でて、こう言った。
『寒い?』
俺を覗き込んでくる瞳が同じ寒さを宿しているのに気づいたときには、俺は彼を引き寄せていた。
彼は怒りもせずにそれを受け入れ、する?と言って俺を見上げ……
そのまま俺は彼を抱いたのだった。

そう。覚えている。
慣れていないとはっきりわかる仕草。それでいて積極的に腕を伸ばしてくることも。
上がった声も。半ば閉じた瞳が、どんなに優しかったかも。
そして、引き裂かれる痛みにこぼした生理的な涙も―――

ひどいことをした。
今さらながらに、震えが走る。


「んーでもな、けっこうよかったぜ?」
青年の次の台詞に、俯いていた直江は顔を上げた。
「あんた優しかったよ。ありがと」
くすくす、と笑いながら肯かれて、直江はその笑みに声を失った。
何か不思議なものが体に充たされる。それが何なのか、わからないけれど。
何だか幸せな感じがした。

「でさ、名前、聞いてもいい?」
くるくるとよく動く真っ黒な瞳が、直江に向かってにっこりと笑った。




「こういう始まり方もいいよな」
名前を知ってから、青年―――高耶―――がにっと白い歯を見せた。
「名前も知らないで愛を交わした。朝になって、ようやく名前を知り合った。
―――そして、どうするんですか……?」
直江が微笑む。

「恋ってやつ、してみねーか?」


そう―――

愛から、始めよう。


STEP 1 fin.02/09/09









STEP 2

「でも、意外だったよ」

勤め先の店に遊びに来た親友は、そう言って笑った。
滅多に飲まないくせに実はかなりいけるクチであるこの親友は、申し訳程度に注文した小さなグラスから、生のままのウイスキーを流している。
唇から離したそれを軽く揺するようにしながら、彼は目の前でグラスを磨いている親友にからかうような眼差しを向けた。
「最近すごく沈んでたお前が急に明るくなったと思ったら、恋だなんてさ。
人付き合いが広いくせに肝心なとこへは踏み込ませないお前が、一日で惚れるなんて」
「からかうなよ。オレは真面目に恋愛やろうとしてんだから」
キュッと音をたてて磨き終えたグラスを所定の場所へ仕舞いながら、高耶が肩をすくめた。
「はいはい」
文句を垂れながらもからかわれて嬉しそうな親友に微笑ましげな思いを抱き、譲はコトリとグラスを置いた。

腕を組んで、カウンターの向こうで忙しそうに働く相手を上目に見上げながら、問う。
「―――で、どんな人なんだよ?年上って言ってたけど、高耶って年上好みだったっけ。何かイメージと違うんだけど」
―――きっと、綺麗な『大人の女性』を想像しているのだろう、無理もない、と心の中で苦笑した高耶が、ちらりと時計を見上げて答えた。
「もう来るはずなんだけどな。遅い。あいつ、没頭すると時間忘れるから」
「キャリアウーマンってこと?へぇ、ますます意外だ……」

譲が首を傾げたとき、樫の木でできた扉が少し慌ただしげに開かれて、一人の男が入ってきた。
物音に振り向いた譲だったが、そこにいる完璧な男ぶりの男性を認めて再び体をカウンター側へ戻した。どう見ても単なる客にしか見えなかったからだ。それも、待ち合わせに遅れて少し困っているらしい、いい男。
そういえばカウンターの反対側の端に、さっきから綺麗な女性が座っている。あれが待ち合わせの相手かもしれない。少し水商売の匂いがするけれど。

ところが。

「高耶さん、遅くなってしまってすみません」
目の前にいた親友が自分の背後に向かって手を振ったと思うと、そちらに足音が近づいてきて、豊かな低音の声がこう言ったのである。
「 !? 」
がばっと振り向くと、そこに立っているのは確かに先ほど入ってきた男だ。
見上げるような長身に均整の取れた肉体、容貌は俳優並みで、声はこのとおりの美声。
この、ちょっと珍しいようないい男が、遅れてすみませんと謝る相手は……何とカウンターの向こうで仕事中の、自分の親友だった。
……少し、眩暈がした気がした。

「紹介する。譲、これがオレのお相手。直江っていうんだ。
直江、こっちが親友の譲。医者のタマゴ」

笑いながらそんな風に男性を紹介してきた親友は、実はものすごくものすごい人間なのかもしれないと、疑ってしまった瞬間だった。

「初めまして、譲さん。直江信綱と申します」

そして、美声で言いながら涼やかな瞳で微笑んだ『お相手』にも、文句のつけようがなかった。
確かに、『優しくて』『包容力があって』『甘えたくなる』『顔も体もいい』『自慢の』恋人かもしれない。
決して間違ったことを言ってはいない。

ただし……それが男だということを予め言っておいてほしかったな、と思ったりする譲だった―――


02/09/21










「ほんと、あのときはびっくりしたよなぁ〜」

今夜も店に顔を見せた譲が、やはり遅れていてまだ姿を現さない恋人を待つ親友の相手をしながら、くすくすと笑った。
「オレ絶対ヘンな顔してたよ。何から何まで、驚くことばかりだったから」
カウンターの向こうで、親友が首を傾げる。
「そんな驚かせるようなこと他にもあったっけ?」
「自覚ないんだな、高耶は」

大胆なのか鈍感なのか、判断がつきかねる相手に、譲は笑いを苦笑に変えた。
「他人との深い付き合いを怖がってたお前が真面目に恋愛しようなんて言うこともそうだし、その相手が一回り近くも年上だってことも驚きだよ。しかも知り合ってまだ一月にもならないって言うし。それなのにあの仲の良さは何?連れ立ってオフになったりしてさ。オレここに残ったけど、しばらくマスターと盛り上がっちゃったぜ?」

悪戯な笑みを浮かべて上目に見上げると、相手は豪快に笑い出した。

「なんだよ。何話してたんだよ〜?当事者のいないところで噂話なんて、聞き捨てならねーなぁ」
照れる気配もない彼に、譲が固まる。

―――からかうつもりだったのに、裏目に出たか?ちょっと待てよ。こいつ、本気で越えたかも……

相手は硬直している親友に気づかずに一人ごちる。
「そうだよな。ハタから見たらどう見えるんだろ。やっぱそんなに仲良しに見えんのかなぁ。
うわ、照れるぜ〜」

ちっとも照れていない様子で笑っている親友に、譲は、一皮剥けたな……、と遠い目をするよりなかった。


「……え〜っと」
しばらく、にこにこしながら銀食器を磨いている親友をぼおっと見つめ、ようやく立ち直った彼は、当たり障りのなさそうなことを問うことにした。
考えたら、その男のことを殆ど知らないのである。知り合った経緯も。

「直江?ここの常連だって聞いただろ。オレが前の店からここに変わって二週間、喋ったことはなかったけど顔は知ってた」
親友はそう、話し出した。
「珍しいようないい男が、いつも一人で飲みにくるなぁと思ってたら、どんどん顔が暗くなっていってさ。何かあったのかなぁと思ってたんだけど、たまたま店が上がったあとに見かけて」

灯りの消えたビルの柱に凭れかかっている暗い横顔に、ライターの光が陰影を与えた。
その半ば伏せられた瞳が、自分と同じ寒さを宿しているのだと気づいたとき、足はひとりでに動いていた―――

「それで初めて喋ったんだ?」
「ああ。前に勤めてた店に連れてって、しばらく飲んだ。大して話もしなかったけどな。黙って二人で飲んでた」

思い出したように遠い目になった親友を見て、その頃少し弱気になっていた彼を思い出す。
そんな時に出会って、彼らはお互いに元気になったのだろう。

「で、仲良くなったわけだね。こうやって待ち合わせて出て行くくらいには」
にやっと笑ってみせると、
「おう。―――でも、誤解すんなよ?家は別々だからな」
人差し指を立ててみせる彼が思いがけず可愛くて、こちらまで幸せになる。

「ところで、ぶっちゃけ、どの程度の付き合いなわけ?直江さんとは」
同時に、ちょっと突っ込んだ質問をして、からかってやりたくなる。
「どの程度って?……何だよ、照れるじゃねーか」
意図を察して、相手がこちらを小突いてきた。しかし、
「やることはやったぜ?最初の日に」
返った答えはかなりの直球で。
譲は再び、呆気にとられてしまった。
「でもなぁ、直江の奴、あれ以来何も仕掛けてこねーんだよ。何か、肩すかしっていうか。どう思う?」
さらに、眉を寄せて悩まれて、彼は返事に困ってしまう。
「どうもこうも……」
「ほんとは直江、オレのことあんまり好きじゃないのかも……最初は成り行きだったし。やっぱ今頃になって正気が戻ってきたとかかなぁ……」

ない。それはない。絶対に。

内心で力いっぱい断言した譲である。
先日見たばかりではあるが、直江のあの眼差しは特別だった。
この上なく愛しいものを見る眼つきで、この親友を包み込むように見つめていた。

「好きだったらキスしようと思わねーか?キスだけじゃすまないくらいほしくならねーかなぁ」
浮ついた台詞ではなく、真摯な眼差しで問いかけられて、その一途さに微笑みたくなった。

「……高耶」
「何?」
このまっすぐで綺麗な、そのお陰でちょっと苦労してしまうタチの親友に、オレの見たものを教えてあげよう。
お前一人では気づけないかもしれない、あの人の心を教えてあげよう。

「あのさ。……高耶が思っている以上に、直江さんも考えてるよ、きっと。あの人見た目より不器用なところがありそうだし、けっこう真面目に色々考えてしまってるんだと思う。
―――高耶が大切だからだよ。大事にしたいからだよ……」

不器用ですれ違ってしまう、優しさゆえの誤解。

大人だからこそ、惑ってしまうこともある。
愛するがゆえに臆病になることもある。
大事にしたくて触れられないなんてこともあるんだよ。


「そうかな……」
くすぐったそうに笑顔を浮かべてゆく親友へ、答えとなるのはこの一言。


「―――遅くなってしまって申し訳ありません、高耶さん!」


樫の扉に取り付けられたカウベルが、優しい音色を聴かせた……


02/09/26









「何だか、ご機嫌じゃないですか?」
「―――ん?そうか?」

オフになってからの、お決まりのデート(?)コース。
高耶の前の店にて、隅の二人掛けのテーブルについた二人である。
普段なら高耶にとって付き合いの長い店長のいる、カウンター席につくのだが、今夜は珍しく高耶が奥のテーブルを指したのだ。その方が落ち着いて話せるだろ?、と。

椅子を引いて腰掛ける彼の顔が、優しいというか楽しそうに笑っているように見えて、年上の恋人がふと首を傾げた。
指摘すると、相手は人を呼ぼうと彷徨わせていた視線をちらりと戻してさらに嬉しそうな顔になる。

「ここのところ、悩み事でもあるような表情をしていることが多かったでしょう?でも今夜は翳りが全くない」
「そっか。そう見えるか」
ふむふむと肯くと、彼はテーブルの上に両肘をついて、組んだ手の上に顎を乗せた。
その姿勢から前に目を向けたので、見上げられる格好になった相手はどきりとしてしまう。
「譲に言われたんだよ。悩む必要なんかないってな」
そこで猫のように目を細められては、直江はたまらない。
嬉しそうで、楽しそう。
獲物を前に舌なめずりしているような猫の瞳。
けれど決していやな感じは与えない。心臓には悪いけれど。

いつ見ても、この青年は伸びやかで奔放だ。
驚かされることばかり。
地面を専門にしている地味な研究者である自分などには、考えつかないような突拍子もない言動が飛び出す。
まるでびっくり箱のようで、けれどもそれを楽しんでいる自分がいる。
ペースを崩されることが面白いなんて、この頭の固い自分がそんなことを思う日が来ようとは考えもしなかった。

「それで、何を悩んでいたんですか?新しい店での仕事に馴染みきれていなかったとか」
「違ぇよ」
尋ねると、彼ははぁ、と深いため息をついた。
自分は何かおかしなことを言ったろうか。

「ほんっとに、鈍感なヤツ」
もう一つ大げさなため息をついて、彼はこちらへぐいっと迫ってきた。
「あのな、オレはお前のことで悩んでたの。仕事なんか、とっくに慣れてるってば」
「私のことですか?―――それは」
直江が顔を曇らせた。

自分が戸惑っていたように、彼も困っていたのか。
本当は自分と一緒になんて居たくないのかもしれない。
大体、謝る必要はないと言われたけれど、最初の晩には確かに自分が悪かったはずだ。
嫌われても仕方のないことをしてしまった。後で嫌な気持ちになったって当然だ。
だから、恋愛しようと言っていながら、怖くてキス一つできなかった。
俺はもう、こんなにあなたが好きなのに……。

「って、直江?その顔何か誤解してねぇ?」
ふと、伏せてしまった顔を覗きこむようにして、彼が見つめてきた。
「誤解?」
意外な言葉に目を上げると、肯いた彼が、ふと拗ねるような顔をして問い返した。
「お前、オレがそわそわしてるって気づいてたなら、何でそのとき聞いてくれなかったんだよ?」
少しだけ尖らせた唇が可愛い、と思った。
だから、その答えを与えるのには、しばしの時間が必要だった。
「それは……その、―――怖かったからです」
「怖いって、何だそれ」
首を傾げて不思議そうな顔をする彼に、言う。
「私と……一緒にいるのが、いやなのかと思ったから」
彼が絶句した。
「……」
しばらく、そのままあんぐりと口を開けていたが、やがて彼は笑い出した。


「高耶さん?いくらなんでも笑わなくても、っ」
抗議すると、ネクタイを掴まれてぐいっと引き寄せられた。
「ばぁか」
間近で煌く瞳はこの上なく幸せそうで、見とれるうちに視界が塞がれてしまう。
同時に唇も。
何か言う前に、やや肉厚の柔らかな唇が重ねられていた。


02/10/08









「おんなじ悩み事だったなんて、馬鹿みてーだな」
いきなりのキスシーンに出鼻をくじかれたらしいウェイターが奥へ引っ込むのを視界の隅にとらえながら、高耶は晴れやかに笑んだ。

「同じって、あなたも」
軽く重ねられただけの唇が離されると、直江がすぐに言葉をついだ。
年下の恋人はふふっと笑って肯き、
「お前があんまり紳士だから、オレのことあんまり好きじゃないのかと思ってた。
譲曰く、それはないってことらしいんだけど、どうなんだよ本当のところ」
まだ掴んだままのネクタイを引っぱってみたり戻してみたりと遊びながら問う、いたずら好きの仔猫のような彼に、直江は勢いよく首を振った。
「好きじゃないなんて、そんな、とんでもない!
あなたこそ俺のような面白みのない人間相手に、疲れているのではと思っていました。最初のこともあるし、嫌われてしまったのではないかと」
一度、目を伏せて、再びまっすぐに相手の目を見つめた。
「それでも、俺はあなたが好きです。とても……好きです」

不器用なまでに素朴なその告白に、恋人はとても幸せそうな笑みで応えた。

そして、軽く唇を尖らせると、拗ねたような素振りを見せて甘えてみる。
「だったらたまにはキスくらいしろよな。こっちから手ぇ出すの、ちょっと勇気要るんだから」
くいっとネクタイを引っぱられて、年上の恋人は破顔する。
「すみませんね。どうにも初めての恋でして、勝手がわかりません」
その台詞に、相手は驚いたような顔を返した。
「初めて?嘘つくなよ。そんないい男のくせして。もてまくって大変だろ」
この自慢の恋人が、これまで一人も女性に目をつけられることなくきたとは思えない。顔といい体といい性格のきれいさといい、最高にいい男なのだ。
しかし相手は苦笑して首を振った。
「いえいえ。とんでもない。
俺はこのとおり、ひたすら地面を愛している人間ですので、まともに付き合おうというような出来た女なんて居ませんでした。
ふられてばかりですよ。付き合ってられないわよって」

「……なんか、わかる気がする」
高耶がむむっと眉を寄せた。
「お前、どこに本心があるのかわかんねぇときがあるもん。本当にオレのこと好きなのかなって。とらえどころがない部分あるよな」

直江はよくわかっていないらしい。不思議そうに首を傾げている。
「そうなんでしょうか」
「うん、すっげぇ鈍感だし。こっちが誘ってるのにな。気づいてなかったんだろ」
ため息をついて睨むようにすると、相手は小さくなった。
「……すみません」
垂れ耳をさらにぺたんと伏せた黒ラブのよう。
一回り近くも年上の恋人なのに、たまらなく可愛くて、高耶は破顔するのみだった。
「もぉいいよ。―――な、今夜泊まりに行っていい?」
今日こそは気づいてくれるだろうか、と誘いをかけてみると、いつもどおりの軽い返事が返る。
「うちへですか?散らかってますよ。それでもよければどうぞ」
「気にしねーよ。オレんちだって結構好き勝手してるから。……大体、お前が散らかってるって言うの、研究関係の書類じゃねーか、いつも。そんなの散らかってるって言わねえよ」

この答えは通じているということなのだろうかどうか、と思いながらそんな風に言うと、相手がふと声のトーンを落とした。
「―――ところで、泊まりに来るというのは、そういう意味ですか」

「そういう意味。何だ、珍しく察しがいいな。いっつも客室貸してくれるだけのくせに」
仔猫な恋人はにまりと笑って大げさに目を見張る。それに苦笑を返しながら、
「今の今ですからね。さすがに。……いいんですか」
見た目とは裏腹に奥手な、年上の恋人は問うた。
相手はあっさり肯いて、
「いいよ。とりあえず今日は、人前ではできないキスがほしいから。後はオプションで、適当に」
そのあまりにもあっけらかんとした最後の言葉に引っかかりを覚えた男だった。
「オプション……適当……」
色気も何もあったものではない言い回しである。
「ま、そのときの気分で好きにしようぜ。気楽に。……何たって、すでに済ませてる仲だしな」
語尾にハートマークでもついていそうな楽しげな口調に、頭の固い奥手で年上の恋人は危うく突っ伏しそうになってしまった。
「何だよ?疲れた顔して。まだまだこれからだぜ?」
お相手はひたすらご機嫌に元気一杯である。
手を振ってウェイターを呼び、軽めのカクテルを二杯オーダーすると、見るからに嬉しそうに鼻歌を歌いだした。

―――ものすごく直球で豪胆なこの恋人は、おそろしく素直で目が離せなくてスリリング。仔猫のように伸びやかで行動的で、可愛らしい。
そのうえこの微笑ましい生き物は自分がとても好きらしい。不慣れさを豪胆な性格でカバーして、率直にすり寄ってくる。
このうえもなく愛しい生き物だと、思う。
最高の恋人だと思う。

「そんなあなたが大好きですよ……」
直江はそう言って、最高の笑顔を恋人に与えた。


02/10/10









「相変わらずの部屋だな」
鍵を開けて、広いのに密度の高いその空間に猫のように滑りこんだ高耶が、感心したような声を上げた。
リビングといい、廊下といい、壁と呼べる部分の全てが本棚と化し、それでもまだ足りずに床の上にまで平積みに紙の塔が林立している。
こんな量の資料の中身を本当に全て把握しているのだろうか、と疑わしい気になりかかるのを、オレの直江に限ってそんなことはない!と思い返す。
それにしても、と高耶はもう一度ぐるりを見渡して呟いた。
「良く燃えそうな家だよな……」

ジョークにしては実感の篭もったその声に、ぎょっとして直江が顔を上げる。

「ちょっ……笑えない冗談はやめてください、高耶さん」
コートをきちんとはたいて帽子掛けに引っ掛けようとしていたのを中断して反論を返す。
「何だよ、素直な感想だって。火の取り扱いには気をつけろよ?」
くるりと振り返った高耶が、笑ってその手から今にも落ちそうになっているコートを奪う。
「……夜の煙草は控えます」
神妙な顔で返答した直江が、奪われたそれを取り返そうと手を伸ばすが、
「これ好きなんだよな〜手触り最高。高価そうだもんな」
恋人は嬉しそうに男の黒いカシミヤコートに頬を摺り寄せた。
手触りに加えて、男の体から移った大好きな甘い匂いがことのほかお気に入りなのである。

「お前の匂いがする」
目を細めたときの表情が本当に幸せそうで、直江は頬が緩むのを止められなかった。
手を伸ばして肩を抱き、ソファへと連れてゆきながら、
「そんなに好きなら差し上げます。可愛がってやってください」
「え、うそだろ?そんな簡単にっ」
大事そうにそれを抱えたままソファに座らされた年下の恋人が目を丸くした。
ねだっているつもりはなかったらしい。ただ、素直に好きだと言いたかったのだ。

「くれって言うつもりじゃなかったんだけど?」
困ったように傍らに掛けた年上の恋人を見上げる彼に、相手は緩んだ目元に笑い皺を深くする。
「あなたが家でも私の存在を感じていてくれるなら、私も嬉しいんですよ」
「いや、でも、コートがなかったら困るだろ。代わりはあるのか?」
意外に気を遣うタチの恋人はそれでもまだ心配している。
「今度買いに行きますよ。
……そのときはあなたに見立ててもらえると嬉しいんですが」
額に手を伸ばして前髪に指を絡めながら少しだけ首を傾げてみると、相手はぱっと顔を明るくした。
「ほんとに?もちろんついてく!」
目を輝かせて喜ぶさまが、子どものようにキラキラと眩しくて、直江は目を細める。

「だからね、このコートはあなたにあげます。―――これも付けて、ね」
直江大好き〜、と首にしがみついてきたのをぱふっと抱きしめて、その耳元でチャリ、と音を聞かせてやる。
「ん?」
それに気を引かれたのか体を離して音の源へと視線を転じた彼に、見せつけるようなゆっくりとした動きでそれを件のコートのポケットに落とす。

チャリ、と音をたてて黒い柔らかな布の中へ吸い込まれた鈍色の金属片は……

「……合鍵……?」
不思議な表情をして、恋人が呟いた。
「そうです」
「鍵?くれるのか?オレに?」
口に出してみて、ようやく実感がわいてきたらしい恋人が、ほわんと頬を染めた。

豪胆な台詞と行動で人を驚かせてくれる反面でこんなに初心な反応を返してくれるところが、たまらない。

直江は微笑んで肯いた。
「お店で待ち合わせて帰るのもいいですが、思い立ったときにいつでも来てくださって構いませんということで。
私は曜日ごとのスケジュールが不規則なので不在のことも多いかと思いますが、そんなときはメモなり残してくださればわかりますから」

「直江……っ」
みなまで言わぬうちに、愛しい相手が体当たりをかましてきた。

「ありがと……すっげぇ嬉しい……」
抱きとめて、押し倒された勢いのままにソファへ転がる。
そうしてしっかりと両腕を締めると、相手は胸の中ですうっと力を抜いた。
安心しきったようなその体重が愛しい。

「嬉しいのは俺ですよ……」
背を撫でるようにしていると、やがて腕の中で黒いしなやかな猫がもぞりと動いた。
「な、キスしよう」
胸に伏せていた顔を上げて伸び上がるように近づいてきた瞳は、どこまでも深く神秘的な漆黒を愛情で一杯に満たしている。

背から手を後頭部まで持ってきて、引き寄せる。
導く必要もなく、相手の唇は的確にこちらの吐息を塞いだ。

人前ではできないキスを思う存分に味わって、やがて少しだけ間をおいた二人はどちらからともなく再び顔を寄せた。


―――ソファから滑り落ちた黒いコートの中で、鈍色の音色がチャリ、と響いた。


02/10/20











せっかく恋愛しようって決めたんだ。
どんな風にステップアップしていくかが、楽しいんだろ?
こうやって一緒に話したり、駅で手を振ったり、来るのを待ちわびたり、手をつないでみたり。
ちょっとケンカしたり、コクってみたり、そしてキスして仲直り。

その次は?
その続きは?

全てが、オレたち任せ。

―――それが、恋だろう?


「なおえ、好き……大好き」

11も大人の恋人。堅い仕事に就いて、いつも研究に没頭して、地面ばっか見つめてて。
そのくせ見た目は最高にかっこよくて、しかも優しくて。
それでいて、ものすごい鈍感。朴念仁とかそういうレベルじゃないくらい。最初の日に抱かれたことがいかに珍しい行動だったのかがわかる。
全然疎くて不器用で、そのくせものすごくオレを大事にしてくれて。

……そんなところが、全部好き。

甘えてみたくなるような胸をしている。見つめられると落ち着く温かい瞳は鳶色。大きな手がどれほど優しく髪を撫でてくれるか、オレだけが知っている。


そんなのも、全部―――オレのもの。


STEP2 fin.02/10/20







ねねむさまに捧げます。
アンケートにお答えくださったうえ、サイトぐるみでのおつきあい本当にありがとうございます★
これからも、どうぞよろしくお願いいたします!


MIDI by TAM's music factory  
bg image by : kei's laboratory