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LASTING ...


















扉を開けると、冷たい風の吹きすさぶ街に出た。
ビジネスビルが林立する中を、歩いてゆく。
わき目もふらず、ただ淡々と足を運び続ける。
冷たい風に髪が流され、マフラーを高く引き上げて両手をポケットに突っ込んだ。
学校指定のコートは重いばかりで防寒の役目を果たしていない。

木枯らしが、踏まれて磨り減った薄っぺらい落ち葉をきりきり舞いさせていた。


街の中心にひときわ大きな一角を占める橘ビルの正面玄関から出てきた、およそこんな街とは不似合いな制服姿の高校生は、長身を風にさらしながら駅への道のりを歩いていった。
音も立てずに舗石の上を踏んでゆく。
―――いや、音を立てないわけではなくて、その音が周りにあまり伝わっていないだけだ。冬の切りつけるような空気は、鼓膜の感覚を痺れさせる。


青年は、茶色味の強い柔らかそうな髪の下で、鳶色の瞳を暗く伏せていた。
その服装は有名私立高校の制服と鞄という、見るからに高校生のものだったが、身にまとう空気は決して子どもらしくはなかった。
まだ幾分縦の成長方が優勢であるらしいながら、成人男性の平均を上回る体格を持ち、足の運びも体のさばき方も、まるで大人のよう。
長めの前髪に隠された顔立ちは、文句のつけようのない整いようだった。
ちょうど、美少年から大人の男へと変化する途中にある、移行期独特の美貌である。
その貌は、しかし暗く静かだった。


『―――よく頑張っているようだね』
『本当に。姉さんもきっと喜んでいるでしょう』

優しい言葉も、心には届かない。
本気の優しさでも、凍てついた殻を突き通すまでには至らない。

―――もう三年も経ったろうか。
想いを馳せそうになり、慌てて目を伏せる。
「考えない……」

考えたら駄目だ。
築き上げてきた硬い自己防御の壁が、壊れてしまう。
殺してきた感情を目覚めさせたら心が壊れてしまう。

だから、貌は面でいい。
何も感じないでいいから。ただデスマスクを貼り付けて、目を背けて、やり過ごすしかない。

―――青年の、年齢に似合わない落ち着きは、徹底的な感情の切り捨てからきているのだった。

やがて、駅前の広場が見えてきた。
道ゆく人々は一様に襟を高く立てて、寒い風と、周囲の世界を拒否している。
―――だから、誰も気づかなかった。
そこにいる、小さな存在に。




02/09/01







伏せていた目をたまたま上げたときに、青年はそれを見つけた。

その子どもは、まるで光を発してでもいるかのように、青年の目に飛び込んできた。

たった一人ぼっちで、駅前広場の片隅に佇んでいた五歳くらいの男の子。
黒い髪、瞳、トレーナーに短パンを穿いて、小さなマフラーを手に握っている。
何ということもない、ごく普通の子どもなのに。
何故だか、青年の目には鮮やかに入り込んでいた。

気づけば、目が合っていた。

「―――ッ」
子どもの目はすぐに離れていってしまったが、その一瞬だけで、心臓が、きりりと痛んだ。
その黒い大きな瞳に浮かぶ、捨て猫のような悲しみが、まともに目に入ったのだ。

この子どもは迷子だ。
すぐにわかった。大きな瞳がきょろきょろと辺りを見回しては、悲しげに瞬きする。
探す人を見つけられずにいるのだろう。

青年は、まっすぐに歩いて行った。


「一人で、どうしたの」
見下ろしたら怖がるだろうと、屈みこむ。
声を掛けると、子どもはこちらを向いて、泣きそうな顔になった。
誰も差し伸べてくれなかった手を、ようやく得ることができた安堵が、涙腺を緩ませたのだろう。
「わかんない……」
「お母さんは?一緒に来たんじゃないの」
ゆっくりと問われて、何もわからない少年は、とうとう俯いてしまった。
「……わかんない……」
小刻みに肩が震えだして、彼が泣き出したことを知る。

けれど、普通の子どもとは違って、彼は声を上げなかった。わんわん大声を上げて泣くのではなく、声を殺して涙だけをぼろぼろこぼすのだ。
何だかひどく不憫に思えて、青年は自分まで悲しくなった。

「泣かないで」
彼は、手を伸ばして少年の頭を撫でた。
「ふっ……ぅ……」
ときどきこぼれる嗚咽が、弱々しくて心細くて、たまらなくなった。

「泣かないで……」
気づけば青年は、学生鞄を地面の上に置いて、小さな迷子の子羊を両腕で抱きしめていた。
そうして、立ち上がる。
抱っこした小さな体は、思いのほか軽くて、いっそう不憫になった。

小さな拳で首に縋りつかれて、青年はもう何年も忘れていた愛しいという感情を思い出している自分に気づく。

「一緒に、おまわりさんのところへ行こう……?」
そう囁いて、青年は少年の顔を至近距離から見つめた。

大きな漆黒の瞳の中に自分の顔が映っている。
その顔は、優しかった。もう、何年も見ることのなかった表情が、そこには浮かんでいる。
そのことに驚き、そして彼はゆっくりと微笑みを浮かべていった。

「僕はね、直江っていうんだよ。なおえ。きみのお名前は?」
「たかや」

「たかや、か……じゃあ、たかや。一緒にお母さんを探しに行こうね?」
「うん。行こう、なおえ」

青年―――直江は高耶を地面に下ろして、小さなその手を握った。
もう片方の手には鞄を持ち、彼は交番に向かって歩き始める。

つないだ手の先で、ちょこちょことせわしく足を運ぶ子どもを、愛しげに見やりながら。




02/09/02







「……ん……」

腕の中で小さく寝息をたてる幼い少年を、青年はそっと撫でた。
柔らかい黒髪を梳くようにし、閉じられた瞼の上に指を滑らせると、少年の口元がゆっくりと笑った。

ようやく寝付いてくれた小さな子どもに、せめて今だけでも安らかな眠りが与えられますように。
青年はそんな呟きを落としていた。



『―――やはり、捜索願は出ていませんでした』
駐在所では何の手がかりも得られず、少年は地方警察署まで連れてゆかれることになった。
直江は自ら望んでそれに同行した。少年が彼の服から手を離さなかったせいもあるが、彼自身がもう、少年の境遇に気づいてしまっていたからだ。
少年には……探してくれる人がいない。
駐在所で待っている間に誰も探しに来なかったことも一つだが、彼の口から一度も『お母さん』、『お父さん』といったような呼び声が発せられなかったことで、直江にはそのことが読み取れた。
頼る人がいなければ、誰の名前も呼ぶことができない。
それは、直江自身もいやというほどわからされたことだから。すぐにわかった。

『家族』が……いないのだ。少年には。―――直江にも。

少年が呼んだ、ただ一つの名前は、『なおえ』だった。たった今、名乗ったばかりの直江の名。
少年の知る名はそれ一つきりだった。


知能障害でしょうか、と、何を訊いても『わかんない』の一言しか言えない少年を見た警官は言った。
もしかしたら、そうなのかもしれない。父の名も、母の名も、どこから来たのかも何一つわからないという。
けれど、もしそうなのだとしたら、今ごろは家族が血眼になって探しているはずだ。
―――おうぎ たかや―――
辛うじて聞き出すことのできた名前を照会しても、全くどこからも問い合わせは入っていない。
もし家族がいるのなら、そろそろ警察に報せるはずなのに。
たかやはまだ五歳程度の子どもなのだ。中学生や高校生の家出とはわけが違う。夜になっても見つからなければ普通は親が心配でいてもたってもいられなくなるはずである。

それがないということは、本当の意味で少年は『独りきり』ではないのか―――?
直江には、そう思えた。

だから、彼は途方に暮れる警官たちに自ら申し出たのだった。

『たかやを、僕が引き取ることはできませんか。
もし親御さんが名乗り出てきたのなら、そのときはもちろんお帰しします。それまでは、うちで預からせていただいてもいいでしょうか―――』


そうして、直江はたかやを家に連れ帰ったのだった。
これはまだ、正式な手続きを踏んでいない。ひとまず今夜は預かっていただきましょう、と警察が許可してくれたものだ。
明日もしも何か手がかりが浮上してきたら、きっとそのときは帰してやらねばならない。
けれど、今夜一晩でも、この小さな生き物に温かい寝床を用意してやりたい、と……直江は思った。

なかなか寝付いてくれなかった子どもは、直江が添い寝してやるとようやく安心したのか、ゆっくりと眠りに落ちていった。

もしかしたら、『捨てられた』のかも知れない小さな命が、直江の腕の中で確かに息をしている。

無機質な、だだっ広い感じのするマンションに一人きり。
そんな生活に慣れた身には、大きなベッドに自分以外の体温があるのが不思議な気がする。
腕の中の小さな体は体温が高くて心地いい。
髪の感触も、早い息も、安心しきったような寝顔も。
すべてが、愛しかった。

長い間忘れていた感情≠ェ、よみがえっていることを、直江はそのとき実感していた。
腕の中の小さな生き物の運んできた一つの奇跡のように。



02/09/03







「ねえ、たかやはどこから来たの?」

「なおえはどこからきたの?」


言葉遊びのような問答が、なぜだか楽しかった。
答えは出ない。知らないものはどうしようもないのだ。それでも、直江は高耶に話しかけることをやめはしなかった。


直江が高耶を拾ったのは、高校の終業式の日だった。
橘ビルへは、成績表を見せに寄ったのだった。現在の保護者である、叔母夫婦に。

彼の両親は、三年前に交通事故で他界した。
それからの二年間、彼は天涯孤独の身の上になったと思って過ごしたのだが、実は駆け落ちた母親の実家にはその妹が存命していた。母親の実家は橘グループの経営者筋で、夫と共にそこを継いでいた叔母が、一年前に彼を見つけ出したのである。
彼は、それまでの身元保証人だった色部の家を出て、橘の世話になることになった。
しかしそれは彼が高校を卒業するまでの保護者として橘の名前を使わせてもらっているだけで、彼は叔母たちへの思慕も執着もまるで持っていなかった。住んでいるマンションも、名義は高校卒業と同時に彼の名に書き換えられるようにしてあるし、学費も奨学金を頼って極力叔母の世話にはならぬようにしていた。
高校を出たら、橘とは縁を切る。
直江はそのつもりだった。金の世話にはなりたくないし、情を持つつもりもなかった。
彼の中で、自分には身寄りは無いと同然だったのだ。
すべてを喪ったあの日から、二年間。彼は天涯孤独の身の上をぎりぎりのところで生きてきたのだから。
今さら親族がいたと言われたところで、駆け落ちた両親には何のかかわりもないと同じ。まして自分は彼らに会ったことすらなかったのだ。存在も知らなかった。
そんなものは、赤の他人だ。

直江は橘の保護下にあっても両親と共にあったころからの姓をそのまま名乗り続け、頑ななまま一年が過ぎようとしていた。


昨日は三学期の終業式だった。
翌日からは学校もない。高校二年に上がるまでの短い休みが始まった。
直江は高耶と共に、不思議なくらい穏やかで温かい日々を過ごすことになった。

生き返らせてはならないと凍らせてきた心≠ェ、小さな高耶の存在を得て息を吹き返し始めていた。
感じるということを、思い出し始めていた。


高耶が笑う。可愛くて嬉しくなる。

高耶が泣く。可哀想で悲しくなる。

高耶が甘えてくる。愛しくてたまらなくなる。


高耶が何かするたびに、それらの行為が直江の中の堅い殻を溶かし、柔らかな部分を再生してゆく。
喜怒哀楽、すべての感情が、だんだんほぐされて動き始める。
死んでいた心が生き返った。
直江は、それを静かに受け入れた。家族を喪った悲しみも、流せなかった涙も、高耶の小さな手に、瞳に、溶けていったのだった。


「なおえはどこからきたの?」
つぶらな黒い瞳がじっと見つめてくる。
小さな紅葉のような手で、頬に触れようとする。

直江はそのお手手をそうっと握りこんで、柔らかな頬っぺたにキスをする。
くすぐったそうに首をすくめる少年が、お返しとばかりに直江の頬に小さな唇を寄せる。

「たかやはどこから来たの?」


―――本当はわかっている。高耶はきっと天国から落ちてきた小さなメサイア。




02/09/04








二人でソファに寝転がって喋る。


「たかやはずうっととおくからきたの」

「遠くか。この国よりも?」

「もっととおく」

「じゃあ、この世の果てよりも?」

「もっととおく」

「じゃあ、お空の果てよりも?」

「もっととおく」

「う〜ん、降参だ。わからないよ。
ねえ、そろそろご飯にしようか、たかや」

「うん」


二人で食べる食事は、ちゃんとおいしい味がした。
砂を食むような、あのざらついた無感覚さは、まるで嘘のようにどこかへ消えてしまっていた。



二人でベッドにもぐりこむ。

直江の懐に頭を突っ込んで定位置を確保した高耶が、寝付くまでの間にはまた言葉遊びが始まる。


「ねえ、なおえはどこへいくの」

「なおえはね、いつかお空に帰るんだよ。たかやの傍に」

「おそら、たかやがきたところ?」

「そう。たかやはお空からきたんでしょう?なおえのために」

「ふぅん。そうなんだ」

「たかやはどこへ行くの?」

「たかやは、ずうっとここにいるの。なおえといっしょ」

「たかや……」

「ここがいい」

少年は、温かな腕の中で気持ち良さそうに目を瞑り、程なく眠りに落ちる。
青年は、その寝顔を飽くことなく見つめ続け、そうしていつか眠るのだ。


やさしい月の光が、白いベッドに眠る二匹の仔を静かに照らし出していた。




02/09/05








―――知っていた。たかやは天から贈られたひとときの安らぎ。
いつか、還っていってしまうということは。



二人の暮らしはとても幸せだった。

一緒に眠り、目を覚まし、食事をして、そしてお喋りに時間を忘れる。
時々は外に出て、手をつないで歩く。

街まで出かけてデパートに入る。
何ということもないレストランで、お子様ランチを食べさせる。
少年は嬉しそうに笑う。
初めて見るように目を輝かせて、それに挑みかかる。
見ている方が幸せになる。

また手をつないで、家まで帰る。
一緒に風呂に入って泡だらけになって遊ぶ。
浴槽に浸かってまたお喋りする。
茹だってしまわないうちに上がって、リビングに戻る。
キッチンスペースに円いスツールを持ってきて、少年はそこから青年の手元を見つめる。
お手製の夕食も、だんだんメニューが豊富になる。
新しい料理が登場するたびに、少年は興味津々の顔でそれにスプーンを突っ込む。
おいしかった、と満面の笑みで答えられるときが、一番幸せ。

そして二人でベッドにもぐりこんで、またお喋りする。
答えのない問いを遣り取りして、いつのまにか眠る。


しあわせ。




そして、春休み最後の日。
たかやは消えた。


夜中に腕の中が淋しくなった。
慌てて飛び起きた。

ベッドには、まるで最初から彼一人しかいなかったかのように、何の気配もなかった。



―――たかやは、ずうっとここにいる。なおえのそば。


掃き出し窓から入り込んだ夜の風が、カーテンをひらひらと揺らしていた。




02/09/06








探しても、探しても、もう彼はどこにもいなかった。
キッチンに残っていたプラスチックの器と、先の丸い子供用のスプーンの存在だけが、あれが現実であったことの証明で。
直江は、そのスプーンを握って、一人静かに佇んだ。


彼は、空に還っていったのだ。
自分のもとに遣わされた、小さな黒い髪の天使。


ねえ、たかや。 きみのお陰で、僕は心を取り戻したんだよ。




始業式の朝、電話が入った。
『今日から二年生になるのね。無理しないように体に気をつけて頑張ってちょうだい』
叔母だった。
気遣いに礼を言うと、彼女は少し躊躇うような時間をおいてから、次の言葉を発した。
『今日……何時ごろにお家に帰るの?』
「式は午前で終わりますので、二時までには帰宅します。何か?」
『それなら、少しだけでいいからそっちにお邪魔させてもらってもいいかしら』

直江はつと眉を吊り上げた。
必要以上には関わるなと言ったはずだ。連絡はこちらがビルに出向くからと。

その沈黙に、相手は少し怯んだような間をおいたが、すぐに次の言葉を紡いだ。
『渡したいものがあるの。一瞬でいいから、すぐに済むわ。……ごめんなさい』

最後の言葉が消え入るように寂しくて、直江はふと眉根を緩めた。
わかっていてわざわざ言ってくるのだ。
自分の頑なさを知っているのに、それでも諦めようとしない。
肉親の情が捨てられなくて、こんな可愛げのない子どもにでも茨を抱くつもりで手を伸ばしてくる。

……いい人なんだ。叔母さんも、叔父さんも。


初めて、直江は素直に相手を受け入れる気になった。
心が戻ってきたから、きっと相手の気持ちがわかるようになったのだろう。

―――たかや、きみのお陰だよ


『……どうしても、駄目?』
不安そうな受話器の向こうの声に向かって、直江はついぞ見せたことのないような、小さな笑い声を含んだ声を返す。

「いえ、どうぞ。いらしてください。
―――お待ちしています、叔母さん」




02/09/07








叔母の持ってきたのは、手作りのブランディケーキだった。

―――ブランディケーキ。

デパートに行ったとき、おやつに入った喫茶店で、自分が頼んだもの。
たかやは興味津々にそれを一口食べたが、強い酒の味に顔を顰めていた……


「よしくん !? 」

驚いたような叔母の声に目をやれば、彼女の顔が歪んでいた。
頬に、熱い何かが流れていた。


「どうしたの!」

「なんでも……ないんです。なんでも……」

止め処なく流れ続ける涙が、どうしてだか快かった。
三年間、乾きつづけていたものが、ようやく洗い流されてゆく。


「初めて、泣いたわね……」

……俯いた頬を、両手で包まれた。


―――あぁ、母さんの手に、似ている……




この日、ようやく自分は全てを受け入れることができた。




あれから十年、直江は駅前広場で迷子になっていたあの子どもを、二度とは見かけなかった。
自分の心を生き返らせてくれた、黒い髪の天使。


机の上に置いてある小さなフォークが、いつまでも自分の御守だった。


二度とは会えなくても。
決して終わらない、一つの出会い。

空に還るときに、再び出会うだろうか。

終わりのない旅は、まだ続く……


EVERLASTING ...




end.

02/09/07




捨て子(?)な高耶さんと、家族を亡くして空っぽになっていた直江さんとのお話です。
何かコメントをいただけると、とても嬉しいです。
bbsまでどうぞお願いいたします〜★

五十嵐翔華さまに捧げます。
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