にこり。
ふわり。
くす。
すれ違う人々が俺を見て、例外なく微笑みを浮かべる。
正確には、俺を見て、ではなく、俺のジャケットの胸ポケットから顔だけを覗かせてひくひく髭を動かしている仔猫の姿を認めて、彼らはその光景に笑いを誘われるのだ。
標準以上の体格をしたいい大人と、胸ポケットの仔猫。
こんな状況になったのには、わけがある。
自宅マンションの廊下で鳴いていた仔猫を拾ったのが、二週間ほど前だ。
その数日後に、猫が自動車に轢かれそうになり、守った代わりに自分が怪我をした。幸い、信号が青に変わった直後のことで自動車のスピードがあまり出ていなかったので、打撲と擦過傷で済んだ。
猫はまったくの無傷で、病院の枕元でも飛んだり跳ねたり元気一杯だった。俺の見舞いに来る姉に随分と可愛がられ、退院のときには「ちょくちょくうちに連れてきなさいね」と念を押されたほどだ。
そうしてまたふたりに戻った俺と猫は、マンションで元通りの生活を送り始めた。
猫は小さい体でよたよたと覚束ない足取りながら、俺の歩く後ろをひたすらくっついて走るので、外出時はどうしたものかと頭を捻り、一つ良い方法を思いついた。
首根っこをつかまえて上着の胸ポケットに入れてやると、多少きつそうな様子ではあるものの、まだ小さな猫は頭だけを覗かせてちょこんと収まった。外へ出たがったり、暴れたりする様子もない。
こうして、俺にくっついていたい猫と、雑踏を歩かせたくない俺との共通目的は果たされた。
その代償が、すれ違う人々の視線というわけだ。
妙齢の女性から秋波を送られるのは慣れていたが、中学生くらいの女の子連れに指差されて『可愛い!』と叫ばれるのは、想像したこともない体験だった。
他人事ならば、いい年をした男がジャケットの胸ポケットに仔猫を入れて歩くなど晒し者以外の何物でもないと思う。
けれども、俺はこの猫を一瞬でも離す気はないし、猫も離れる気がないのは明らかだ。不思議なことに。
指先で頭をくすぐってやると、フニィ、と猫は鳴いて、目を瞑った。眠る気らしい。
「ゆっくり歩くから大丈夫ですよ。おやすみなさい、―――さん」
ニィ。
いつもどおりの返事をして、猫はふにゃっと首を傾けた。
眠ってしまった仔猫をポケットに入れたまま歩いていると、向こうから一人、何となく目を引く男がやってきた。バランスの良い長身に、少し長めの茶色い髪をした、二十代の後半の男だ。全く知らない相手だが、ふと視線が流れた。猫をポケットに入れて歩いている大男に、相手はまだ気づいていない。
やがて、周りの人間が揃って俺を指差すものだから、その男も何の気なしにという風でこちらを見た。
―――途端、その表情が激変した。
飄々と肩で風を切って歩いていた男は、俺の姿を認めて目を見開いていた。仮面のように動かなかった表情が、ひどく人間的に歪んでいる。
例えるならば、長い間行方知れずだった古い友人を見つけでもしたかのように。
男は急に歩調を速めて俺の方へと大またに歩いてくる。
あっという間に目の前まで来た男は、
「おまえ、『 』!何やってたんだ。連絡も寄越さねぇで!」
と、旧知の仲のような口調で話しかけてきた。しかし、俺には全く見覚えの無い相手であるし、男が口にした名前にも心当たりは無い。
「人違いだ。俺は『 』などという名ではない」
避けて通ろうとすると、相手は眉を寄せて怪訝な顔になった。
「はあ?何言ってんだ。おまえ、どうかしたのかよ」
「何をする!」
無遠慮に肩を掴まれ、さすがに少し腹が立って勢い良く振り払うと、激しい動作で目を覚ましたのか仔猫が鳴いた。
ニャア!
鋭い鳴き声に、男がその音の元を見る。―――その表情が、再び動いた。
「……おまえ……」
仔猫も男を見て、ニャアと一声鳴く。そして、ニコリと口角を吊り上げた。
ときどき俺に向かってそうするように、満面の笑顔を作っている。あの、まるで言葉が通じているかのような賢い瞳を細め、何かを明確に伝えようとする顔になっていた。仔猫は明らかに、目の前の男に向かって話し掛けている。
男は仔猫と俺の顔とに交互に視線を走らせ、そして、ふっと表情を和らげた。
「……そういうことかよ」
「何がだ?」
「何でもねぇ。―――幸せにな」
首を降って、仔猫の頭をちょいちょいと撫で、男は踵を返した。
去り際の一言は、ひどく優しくその場に響いた。
俺はなぜか動けず、街路樹からはらはらと降りかかる薄紅色の花びらの向こうに消えてゆく背中と、少し斜めにそびやかせた肩を見送っていた。
ニィ……
仔猫も、ポケットから覗いた頭を男の方へ向けて、じっとその背中を見送っている。
ふいに、
「―――『 』」
口をついて、知らぬ名がこぼれおちた。
『幸せにな。』
おまえは―――『誰』だ?
『 』……
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