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目覚めると病院のベッドの上だった。 ベッドの脇にあるスツールには唯一の身内である姉が憔悴した顔で座っており、目を開けた自分を見るなり泣き出した。枕の傍らには果物の盛り合わせに使われる取っ手付きのカゴが置かれており、上半身を起こして覗いて見ると、その中には小さな仔猫が丸くなって寝ていた。 頭を打ったせいで事故の前後の状況を覚えていないのだが、自分は道路に飛び出して車に轢かれそうになった猫を助けて、車に接触したらしい。接触したと言っても、信号が変わって直後のことで、あまりスピードが出ていなかったので、こちらのダメージは幸い打撲傷と擦過傷程度で済んだのだそうだ。 件の猫は枕の横に置かれた果物カゴをベッド代わりにして丸くなって眠っている。 事故の記憶はないが、この猫のこと自体はちゃんと覚えている。数日前にマンションの廊下で鳴いているのを拾ったのだ。 しかし、自分の身を投げ出してまで守ろうとするほど可愛がっていたというのは、自分の性格と考え合わせると意外な気がした。 しばらく安堵のあまり涙が止まらなかった姉が、やっとハンカチを手放して、何か飲み物を買ってくる、と病室を出た後、ふと何だか胸の辺りが寂しい気がして手のひらを当ててみた。 自分の鼓動が聞こえる。ただそれだけだ。 それが当たり前なのに、 何かが欠けてしまった、そんな気がする。 この胸に自分は何かとても大切なものを抱いてはいなかったか―――? 頭の中にそんな呟きが落ちたとき、 「―――さん」 唇がひとりでに動いた。 全く聞いたこともない名前だったが、なぜか唇はこの名を呼ぶことに慣れていたようだ。するりとこぼれ落ちたその声に反応したのは、カゴの中で眠っていた仔猫だった。 ニィ…… 猫は目を開け、俺の顔を見ると、両方の口角を吊り上げて一声鳴いた。 自分の名前を呼ばれたかのように、猫は笑っている。 小さなトラ縞の仔猫はまるで人間のように、表情で微笑んでいた。 手を伸ばすと、嬉しそうに身をすり寄せてくる。小さな、手のひらに収まってしまいそうなほど小さな毛玉は、早い鼓動と高い体温を持っていた。 脇腹のあたりから胸に這い登ろうとしきりに試みる猫を、親猫がするように首根っこを摘まんで胸に抱いてやると、先ほど感じたあの奇妙な欠乏感が消え失せていることに気づいた。 仔猫は定位置といわんばかりのフィット具合で胸に収まり、そこで丸くなって寝息をたて始めている。 「―――さん」 もう一度あの名前を呟いてみると、微睡んでいた仔猫はむにゃっと片目を開けて、ニィ、と返事をした。 そう、まさに『返事をした』様子だった。 「―――。 これがおまえの名前なのか?」 まさかと思いつつ、ふわふわした毛を撫でる指の動きを止めて呟いてみる。 ニィ。 仔猫は両目を開けて一声鳴くと、目を糸のように細めてまた笑い顔を作った。 こんな小さな仔猫なのに、こちらの言っていることを理解しているかのようなタイミングの良さだ。 たぶん、実際にそうなのかもしれない。 猫は本当に嬉しそうに笑っているから。 「よし、わかった。これからおまえのことをこう呼んでやろう。―――」 早速その名前で呼んでみたが、今度はなぜか猫は反応しようとしない。 じっと、何かを訴えるような眼差しで見つめてくるのみだ。 「――― と呼んでほしいんだろう?なぜ返事をしない?」 ついさっきは間髪いれずに返事をしたというのに。 灰色のトラ縞の仔猫は、むくむくした毛を僅かに逆立てて、むすっとした表情をしている。 例えるなら、何か足りないぞ、と言っているような、そんな眼差しだ。何かを忘れていないか?と。 「―――。……いや、『―――さん』、か?」 先ほどはそういえば、さん付けで呼んだのだ。まさか猫が自分を呼ぶのに敬称を求めているはずもないだろうと思いつつ口にしてみると、 ニィ! そうだよ、そのとおりだよ!と、猫は満面の笑みを浮かべて返事をした。 「おまえ、さん付けで呼んでほしいのか?人間でもあるまいし」 喉元をくすぐってやると、猫は小さいながらも一人前にゴロゴロと喉を鳴らし始める。 「―――さん、か。じゃあいっそ、敬語で話してやろうか」 いかにも猫らしくゴロゴロとじゃれついてくるのを見守りながら、ふと思いついた。 「そうしてほしいですか、―――さん?」 猫の両脚に指を差し入れ、ちょうど人間の赤ん坊を高い高いしてやるのと同じ要領で抱き上げ、目の高さを合わせてやると、 ニィー! 猫は、最高の笑顔になった。 * * *
それからしばらくして弁当や茶を提げて戻ってきた姉は、俺が猫相手に大真面目に『ですます』口調で話しかけているのを見て精密検査の必要を感じたそうだが、それは後になって聞いた話である。 俺は現在、彼と幸せに暮らしている。 この胸に抱いていたたった一つの大切なもの、それは彼だから。 気まぐれで、我が侭で、甘えん坊で、拗ね屋で。 誰よりも高潔な魂を持っている。彼。 たとえどんな姿であろうとも、彼が俺の唯一の真実だ。 |
あなたのことを俺は何一つ覚えていないけれど。 たったひとつ、知っている。 俺の愛したあなたの名前は、『たかや』というのです――― |