タカ、ナス、フジ? |
―――目覚めは、驚愕とともに。 その朝も、目覚めれば傍らに愛しい人の寝顔があるはずだった。 一年の初めという記念すべき日だからこそ、その美しい漆黒の瞳に一番最初に映すものは自分の姿であってほしかった。 元旦の朝のことである。 いつものように腕を伸ばして同居人の体を抱こうと身動きした男は、いくら探っても求めるものを手にする気配がないことに気づいて一気に覚醒した。 殆ど跳ね起きたと言ってもいいほどの勢いで身を起こすが、振り返った視線の先に、彼の姿はなかった。 「たかや、さん……?」 一人で寝るには広すぎるベッド。 そこに、愛する人の姿は―――ない。 「高耶さん?起きているんですか?高耶さん?」 男はわけもなく嫌な予感に胸打たれ、すぐにベッドを出た。 |
「高耶さん……一体どこへ消えたんですか」 寝室、客間、居間、キッチン、バスルーム、ベランダ…… 家中を見て回り、とうとうどこにも彼の姿がないことを知った男は、額に手をやって頭蓋骨を音をたてるほどきつく締め上げた。 考えられないほど、彼の気配が皆無だった。 もし何か急な買い物を思い出してコンビニにでも出かけたというのなら(早朝4時では考えにくいことではあるが)、外出着に着替えた形跡や玄関の靴脱ぎの様子で僅かでもその情報が残るはずだが、実際にはまるで煙のように彼はきれいに気配を消失している。 溶けて消えたとでもいうかのように。 そんな馬鹿な。 一体何が起こっているんだ。彼に何が起こったというんだ。 ―――直江は、ダイニングの椅子に重い体を座らせた。 |
彼は、もし本当にいなくなったとするのなら、彼自身の意思で、能力で、姿をくらませたことになる。 他の誰に、この自分が辿れないような巧妙な気配の消し方ができるものか。 彼の気配を見失うなんて、自分にはありえないはずなのに。 それをもし、覆すことができるとしたら、それは彼本人をおいて他には無い。 彼は、もしや俺に黙って去るべき理由をもっていたのだろうか。 安寧の暮らしが、彼を却って疲弊させていたのだろうか。 自ら幸せになることを躊躇ってやまないあなただから、この暮らしが重荷だったのだろうか。 自分はそれに気づけなかったのか。 あなたの苦しみに気づかず、自ら姿をくらまさせるようなことを俺はしてしまったというのか。 ますます強く締め上げた頭蓋骨が、本当に軋みそうになったとき、―――ふと、男は微弱な何かの気配に気づいた。 「……高耶さん?あなたなんですか?」 その気配の元へと足を運んだ男は、最初の寝室へと逆戻りすることになった。 |
「高耶さん?たか―――」 ベッドに近づき、上掛けをそっと剥がした男は、思わず絶句した。 全く気づけなかった場所に、それは、いた。 確かに彼の気配。間違いなく、この真紅のオーラは彼だ。 漆黒に濡れた瞳も、きっぱりと隈どられた睫毛も、意志の強さを見せる眉も、触り心地の良い黒髪も。 何もかも、彼だ。 しかし、 「……どうしてそんな姿に……」 直江は両手の平でそっと掬い上げるようにして目の高さまで持ってきた『彼』に痛ましいまなざしを向けた。 大きな手の上でころころとじゃれているのは、白いほわほわ。 綿菓子のような白い塊だ。 そこから生えた四本の足はこげ茶色で二つに割れた爪を持っている。 そして、二つのくるりと巻いた角。 羊だった。ただし、手のひらサイズの。 羊の着ぐるみを着て、顔のところはそのまま中身が見えているような格好である。 中身は、言うまでもなく、探していた人であった。 |
「……どうしたらいいんだ」 再びダイニングの椅子に腰掛けて、直江はため息をついていた。 その膝の上で、小さな羊が遊んでいる。 白いほわほわの毛並みに指先を滑り込ませてみると、楽しそうに体を振って答えてくれる。 高耶が一体どういう状況でこんな姿になってしまったのかはわからないのだが、彼は至極楽しそうに自分にじゃれてくれる。 交わす言葉はないけれど、可愛くてたまらない。 彼がもし自分の重みに耐えかねてこの物言わぬ小さな生き物の姿を選んだというのなら、それもいいかもしれない。 彼は実際今、とても楽しそうに笑っているから。 これが彼の幸せなら、自分も幸せなのだ。 手のひらに軽く噛みつかれて、相手の要求に気づく。 両手で皿をつくって目の前に差し出してやると、相手は嬉しそうにそこに飛び乗ってきた。 ふかふかの塊が手の上で跳ねているのを見るだけで、幸せになれる。 「愛してますよ……」 白い毛並みにキスして呟く。 くすぐったそうに身をよじるさまが可愛くて、こちらも幸せになる。 「ねぇ、あなたはもしかして来年にはお猿になっちゃうんですか?」 ふと思いついてそんなふうに尋ねてみると、小さな羊は思案顔になり、それからふるふると首を振った。 「じゃあ、ずうっと私だけの手乗り羊さんでいてくれるの?」 問うと、彼はにこりと笑った。 ぽてんと手のひらの上で腰を下ろし、前足を顔の前に持ってくると、まるで手を叩くような仕草を見せる彼である。 可愛くて可愛くて、その手に唇を寄せる。 すると、彼の方から身を乗り出してきた。 小さな小さな唇がこちらのそれにそっと触れたとき、慣れた感覚が意識を引っ張った。 |
「ん……」 目を開けると、愛する人の顔があった。 唇を離したばかりの状態であることは知れる。 「たかや、さん……?」 紛れもない、彼の姿が目の前にある。 信じられなくて頬に手を伸ばすと、確かな質感と温かさがそこにあった。 「直江、珍しいな。お前の方が起きるの遅いなんて」 相手はいつもと何ら違いのない様子で笑っている。 「私は……寝ていたんですか」 ようやく合点がいって、呟いた。 相手は不審そうな顔になって額をくっつけてくる。熱でもあるのかと思ったようだ。 「何言ってんだ。幸せそうな寝顔でぐーすか眠ってたくせに。どうかしたのかよ」 「そうですか……夢だったんですね」 相手ごと身を起こして、ようやく手にした愛しい存在を離すまいと胸に抱きすくめる。 「夢?」 脈絡のない行動に少し戸惑って、しかし素直に身を任せた彼は、もの問いたげにこちらを見上げてきた。 「初夢です。鷹も茄子も富士山も出てきませんでしたが、いい夢でした」 「ふぅん?」 簡単な説明では満足していない様子の彼だが、 「また今度、話してあげますよ。今はまずあなたを確かめさせて」 「はぁっ?何言ってんだ、朝っぱらから」 脈絡どころではない話の流れに、恋人は面食らっている。 「事情は後です。とにかく今はそのまま、動かないで」 「ちょっ……」 無理矢理ではないけれど強引な流れで、口づける。 可愛らしいキスで目覚めさせてくれたあなたに、私から今年初めてのキスを贈ります。 ゆっくりと深く味わう唇は、柔らかく熱かった。 |
「明けましておめでとう。どうぞ今年もよろしくお願いしますね」 「おめでとう。……それにしても新年早々、何すんだよ全く……」 すっかり力の抜けた体を持て余し気味に、彼は呟く。 「間違いなくあなたでした。よかった……」 「だから、何なんだよ?さっきからぶつぶつと」 「知りたいですか?」 「それを口実に朝っぱらから襲われた身としてはな」 「もうしばらく付き合ってくだされば、聞かせてあげますよ」 「誰がっ」 「あ、即答とはひどいですね。傷つきましたよ」 「傷なんかつくようなやわな心臓じゃねーだろ。不死身のくせして」 「あなたのためなら死んでも帰ってきますよ」 「殺しても帰ってくる男だよな」 「そうですよ。あなたの存在があればそれだけでいい」 「……その台詞でオレが殺されそうだぜ……よく歯が浮いて逃げ出さないもんだよな」 「殺してあげますよ。……本当は好きなくせに」 「好きなわけ……あるのか。実は」 「でしょう?」 「……わかったよ。今年もよろしくな、直江」 「今年も来年もその先もずっと、よろしくお願いいたします」 「お前みたいなどうしようもないやつ、オレ以外に付き合いきれる人間はいねーよな。しょうがないから面倒看てやるよ」 「ありがとうございます」 新年、明けましておめでとう…… 2003/01/01
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